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●DS: デンツィンガー、シェーンメッツアー『カトリック教会文書資料集』
エンデルレ書店。
●CCE:『カトリック教会のカテキズム』日本語版 2002年
カトリック中央協議会
(目次の青色の項目を押すと、その番号の記事にジャンプします。
また目次に戻るときは、最後部にある「ー 目次へー」を押してください。
10)良心の究明とは何ですか。
11)良心の究明はどのようにしますか。
(4)痛 悔
12)痛悔とは何ですか。
13)完全な痛悔とはなんですか。
14)不完全な痛悔とは何ですか。
15)ゆるしの秘跡を受けるときにどのような罪について痛悔を起こさなければ
なりませんか。
16)痛悔には何がともなわなければなりませんか。
17)告白とは何ですか。
18)どのような罪を告白しなければなりませんか。
19)大罪の主な事情を告白しなければならないのはどういうときですか。
20)真実に告白するとはどういうことですか。
21)告白のとき大罪をわざと隠せばどうなりますか。
22)告白のとき大罪を忘れていたならどうしなければなりませんか。
23)司祭は告解において知った事柄を人に漏らすことができますか。
24)場合によっては、この秘跡を一般告白と一般赦免によって授けることが
できますか。
27)免償とは何ですか。
28)教会は何に基づいて免償を与えますか。
29)免償には幾種類ありますか。
30)免償を受けるために何が必要ですか。
31)免償を人に譲ることができますか。
はじめに。典礼
典礼とは何ですか。
―典礼とは「キリストの神秘、とくに過越の神秘を祝う教会の公的な礼拝です
(要約 218)。
要理の第一部で「信経」を見た後、第二部では秘跡を扱います。「信経」では、「教会は何を信じるのか」を見たわけですが、それは「神による救いを信じる」とまとめられるでしょう。神はどうやって人間をお救いになったかと言えば、神が人間になって十字架の死を遂げることによってでした。ですから、信仰の核心は、ナザレのイエスが救い主であるということです。
このイエス・キリストの救いの業は、死と復活と昇天によって終わるのではありません。イエスは天に昇られてからからも、ずっと救いの業をお続けになっているのです。確かに救いの業(贖い[あがない]の業)は十字架の死で完成しました。しかし、イエスはそれで「もう私のするべき事は終わった」と言って、天に昇り後は観客席に座って「さて、人間がどうするかゆっくり見物しよう」と、のんきに見物されているのではないのです。十字架の死によって得られた救いの恵みを、人類にふんだんに分配するために、役に立つことなら何でもするつもりなのです。その第一の行為が聖霊の派遣と教会の設立です。イエスは、聖霊の導きにしたがって、舞台の影に隠れて教会の中で働き、救いの業を継続されているのです。
第一部で見たように教会はキリストの神秘体です。だから教会が働くとき、キリストは頭として活動されているのです。教会はイエスから、三つの権能(教える権能、祝う権能、統治する権能)を授かりました。二番目の「祝う権能」は、言い換えると祭司職のことです。祭司(司祭)とは、ラテン語で「Pontifexポンティフェックス」と言います。つまり、「橋(Pont)を作る人」というのが語源です。教会は神と人間という両岸に架けられた橋で、橋が川の両岸を結びつけるように、祭司は神と人を結びつけるのです。具体的に言うと、祭司の役割は、神の恵みを人間に伝え、人間の感謝と賛美と祈願を神に上げるということになります。教会が公にこの権能を行使するとき、その行為を「典礼」と言います。典礼行為の裏では、見えない形でイエスが働かれるのです。もちろん、「教会が」と言っても、目に見えて動くのは聖職者と一般信徒ですが、聖職者も信徒も前者は叙階の秘跡によって、後者は洗礼によって受けた祭司職(前者は役務的、後者は一般祭司職と呼ばれる)を通じて、典礼行為に参加するのです。
そのために、『カトリック教会のカテキズム』(以下、CCE)は「秘跡の部」を「キリスト教の神秘を祝う」と題し、最初に「典礼」についての説明を行っています。七つの秘跡の執行は「典礼行為」の中心だからです。でも「典礼」とは何でしょう。教会でも「典礼委員会」や「典礼聖歌」などのように「典礼」という聞き慣れた言葉ですが、いざ「典礼って何ですか」と尋ねられれば、「ムム」と首をひねるのではないでしょうか。
典礼とはleitourgia(レイトゥルギア)というギリシア語を起源とする言葉です。元々の意味は「公共の事業」、「公衆の名で、あるいは公衆のために行われる奉仕」だそうです(CCE1069)。これが教会の公の礼拝の儀式を指す言葉になりました。つまり、典礼の式は私的な性格のものではなく、教会が公にするという性格をもつことになります。ですから、その礼拝や儀式は、教会が定めた式次第に従って行われます。この典礼行為の中心に位置するのが秘跡です。
おいおい説明していきますが、秘跡はキリストの制定によりますから、その本質の部分を変えることは人間にはできません。しかし、それを授ける儀式は教会が愛と感謝と敬意を込めて定めています。それらの儀式は、各秘跡の意味とその聖なる性格をよりはっきりと示すために定められました。その部分に関しては、様々な文化に適応させることが可能です。しかし一度教会が定めた儀式の規則は、神の民は心を込めて遵守していかねばなりません。それは没個性ではなく、神と教会への愛の現れです。
第1章 秘跡全般
1)キリストは神の超自然の恩恵を人々に授けるために何をお定めになりましたか。
―キリストは神の超自然の恩恵を人々に授けるために、秘跡をお定めになりました。
第一部で見たように、キリスト教の「救い」とはこの世で充実した人生を過ごした後、永遠の命に至ることですが、それにはどうしても神の助けが欠かせません。この神の助けが恩恵(恵み、恩寵)と呼ばれるのですが、それはどうやって得ることができるのでしょうか。
まず、聖書には「神はすべての人が救われて、真理を深く悟るようになることを望んでおられる」(1テモテ 2-4)とありますから、すべての人に恩恵をお与えになるはずです。
恩恵には、成聖の恩恵(神化の恩恵、常住の恩恵)と助力の恩恵があります。助力の恩恵はいわゆる神の助けで、誰にでもいつでも神が直接お与えになります。それに対し成聖の恩恵は、それを受ける人を神の子にするもので、イエスが定められた手段を講じなければ得ることはできません。その手段が洗礼の秘跡とゆるしの秘跡なのです。この恩恵はキリストがこの地上での生活、なかでも尊い御受難とご死去によって、御父から得てくださいました。多少不謹慎な比喩ですが、イエスが銀行に無限の預金を預けてくださり、それを私たち人間にただで分け与えようとされたと言えます。しかし、「ただで」と言っても、人間がなにもしないでいいと言うのではありません。私たちは銀行まで足を運びATM(現金自動預け払い機)を使って預金を下ろさなければなりません。この銀行が教会、ATMが秘跡というふうに考えてください。秘跡は七つあるので、異なる七台のATMがあると例えればいいかもしれません。
ー目次へー
2)秘跡とは何ですか(秘跡の定義)
―秘跡とは、イエス・キリストのお定めによるものであって、超自然の恩恵を示し、それを与える印です。
この定義は、秘跡を構成する三つの要素を示しています。即ち、「キリストの制定」、「恩恵を示す」、「しるし」の三つです。
後ろから始めますが、「しるし」とは目や耳などの五感で捉えられるものです。「恩恵を示す」というのは、五感で捉えられるしるしによって、五感で捉えられない恩恵が与えられたことが示される、という意味です。例えば、家のドアの外に人が立てば、ブザーがなる防犯装置があったとします。ブザーの音は耳で感知でき、その音は「外に人がいる」という目に見えない現実を示します。同じように、例えば洗礼の秘跡では、受洗者に注がれる水と「○○さん、私はあなたに父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けます」という言葉が「しるし」で、このしるしがあれば、見えない恩恵(洗礼の場合、受洗者の罪を消し、神の子とする)が与えられたことが分かるというわけです。ゆるしの秘跡ならば、自分の罪を言い表した後、「私は父と子と聖霊のみ名によってあなたの罪を赦します」という司祭の声を聞けば、自分の罪は消滅したと確信することができるのです。
少し詳しくなりますが、教会は秘跡のしるしを構成するものを質料と形相(けいそう)という哲学の概念を使って説明していました。質料・形相説とはアリストテレスに遡るものですが、質料とは簡単に言うと材料、形相とはその材料に形を与え、それが「何」であるかを示すものです。例えば、粘土で皿を作った場合、この皿の質料は粘土、形相は「皿」というわけです。この概念を秘跡に当てはめると、洗礼の質料は水、形相は「○○さん、私は父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」という言葉です。水だけでは何の力もないが、その言葉によって秘跡が成立するのです。ゆるしの秘跡の場合は、質料は秘跡を受ける人の罪、形相は司祭が発するゆるしの言葉となります。聖体の秘跡では、質料はパンと葡萄酒、形相は司祭がミサの中で唱える聖変化の言葉(「これは私の体である」「これは私の血の杯」)です。このようなしるしを決めたのは教会ではなくイエス・キリストです。そもそも恩恵を与えるということは神にのみ出来ることですから、イエスの手によらなければなりません。イエスが制定された「しるし」は、教会はそれを変更することはできません。ただ、それを守って、より秘跡の意味をはっきりさせるように儀式を整えていくことが教会の使命になります。
秘跡が行われるとき働かれるのは、人間である執行者(ふつうは司教か司祭)ではなく、キリスト自身です。キリストがご自分で制定された秘跡の中で働かれるのです。ここから、秘跡の客観性という特徴が出てきます。つまり、秘跡の効果は、それを授ける人の資質や功徳にはよらず、ただただ「しるし」があるかどうかによるということです。この客観性を、教会は”ex opere operato”というラテン語で表してきました。つまり「行為が正しく行われるということ自体で」効果を生むというのです(CCE.1127)。例えば、洗礼を授ける人が教皇様であっても不肖の私であっても、しるしさえあれば(水を使い、「私は・・・授けます」の言葉を言えば)、受洗者は同じ価値の洗礼を受けたのです。教皇様から受けた洗礼の方が価値があるのではないのです(もちろん、誰でも教皇様から受けたいと思うでしょうが)。あるいは、ゆるしの秘跡において、罪を告白した後、「私は父と子と聖霊のみ名によってあなたの罪を赦します」という司祭の声を聞けば、たとえその司祭が疲れていて頭がぼーっとしていたとしても、間違いなく罪が赦されたと確信することができるのです。もし大罪の状態にある司祭が秘跡を授けたとしても、それを受ける人はまったく損害を受けません。ただ、この場合、司祭は汚聖の大罪を犯します。
ー目次へー
3)秘跡はいくつありますか。
―秘跡には、洗礼、堅信、聖体、ゆるしの秘跡、病者の塗油、叙階、婚姻の七つが
あります。
人は二つの命を持っていると言えます。一つはこの世での命、すなわち自然的命、もう一つは超自然の命です。イエス・キリストが「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」(マタイ、16、25)と言われるとき、この二種類の命があることを教えておられます。この二種の命には似ている点があります。自然の命が生まれて成長するように、超自然の命も生まれ成長し、その過程で浮き沈みを経験するのです。超自然の命の場合、成長するのに神の恩恵を必要とします。
その恩恵を与えるのが秘跡ですが、秘跡には7つあります。このうち5つは個人のためです。超自然的命の成長過程を自然の命の成長過程になぞらえて、次のように説明します。霊的に生まれるとは洗礼の秘跡、霊的に成人するとは堅信の秘跡。肉体に栄養を摂取することが必要なように、霊魂は聖体で養われる必要がある。病気や怪我をしたとき治療を受けて健康を回復すると同じように、罪によって霊魂の病に陥ったとき、ゆるしの秘跡で癒やされる。老齢や病気によって生命の危険があるとき、特別の助けを与えるのが病者の塗油なのです。
残りの2つは教会共同体のためです。共同体の中に新しい信者を産み立派に育てるために必要なキリスト教的家族を作る結婚の秘跡があり、共同体の牧者を得るために叙階の秘跡があるのです(フィレンツェ公会議1439~1445年:DS1311)。
またCCEでは、洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡を「キリスト教入信の秘跡」と、ゆるしの秘跡と病者の塗油は「いやしの秘跡」と、叙階と結婚の秘跡を「交わりをはぐくむための秘跡」と呼んでいます。そして、聖体の秘跡の場である感謝の祭儀は「教会のいのちの源泉であり頂点である」と言い、諸秘跡の中心に聖体の秘跡があると明言しています(1211)。
4)秘跡はどのような恩恵を与えますか。
―洗礼とゆるしの秘跡は成聖の恩恵を持っていない人に罪を赦して成聖の恩恵を与えます。ほかの秘跡は成聖の恩恵を持っている人にさらにそれを増します。その上、秘跡はそれぞれ固有な助力の恩恵を与えます。
秘跡は恩恵を授けるしるしと言いましたが、恩恵には助力の恩恵と成聖の恩恵があります。7つの秘跡の中で、成聖の恩恵を持っていない人にそれを与えるのは、洗礼とゆるしの秘跡だけです(病者の塗油も、ある場合には大罪をゆるし聖性の恩恵を回復させることがあります)。その他の5つの秘跡は、すでに持っている成聖の恩恵をさらに豊かにします。この5つの秘跡は、それを受ける条件として成聖の恩恵の状態にあることが求められます。偉い人があなたの家を訪問することが分かっておれば、その方が現れる前に部屋を綺麗に掃除し、花や調度品などで飾っておくでしょう。まさか埃だらけでゴミの散らばった部屋に入れないでしょう。それと同じで、秘跡を受けるとき、霊魂にキリストが来られるのですから、霊魂を綺麗にしておくのは当然の礼儀です。霊魂を汚すものは罪です。とくに大罪は霊魂が持っていた愛徳を取り去りますから、大罪を犯したままになっているという意識があるなら、秘跡を受ける前に、ゆるしの秘跡で大罪を赦してもらわねばなりません。
どの秘跡も助力の恩恵を与えますが、それぞれ与える恩恵は異なっています。でなければ一つの秘跡で十分なはずですから。例えば、結婚の秘跡は夫婦が結婚生活をキリストの教えに従って営むことを助ける恩恵、叙階の秘跡は司牧者としての任務をよりよく果たすことができるよう助ける恩恵を与えます。
ー目次へー
5)秘跡を受けても恩恵の受けられない場合がありますか。
―秘跡を受けても、心に妨げのある場合には、恩恵は受けられません。妨げというのは、洗礼とゆるしの秘跡の場合には罪の痛悔のないこと、また他の秘跡の場合に成聖の恩恵のないことです。
洗礼とゆるしの秘跡が与える恩恵は罪のゆるしですが、受ける人が自分の罪を悪いと思っていなければ(痛悔がなければ)、その罪は赦されません。例えば、子どもが家のガラス窓を割ったとしましょう。こちらは赦してあげても良いと思っていても、その子が「僕は何にも悪いことはしてないよ」と言い張るなら、赦したくても赦せない。神様も同じです。罪を赦すためには、人が自分の罪を認め赦しを乞うことが必要条件です。
他の秘跡の場合、秘跡を受けるには成聖の恩恵を持っていなければなりません。
ただし、秘跡がある身分を与えるものであるとき、妨げがあるままで秘跡を受けても、恩恵は受けられないが、その身分は与えられます。例えば結婚の秘跡の場合、妨げを持って秘跡を受けたとしても、確かに二人は夫婦になります。洗礼の場合は、キリスト信者の身分を与えられます。妨げによって受けられなかった恩恵は、その妨げを取り除くときに与えられます。秘跡によって与えられるはずの恩恵は、言ってみれば霊魂の戸口のところで門前払いを食わされ、中に入れないという状態になります。ですから、この場合は、妨げを取り除くときに、以前霊魂に入るはずだった恩恵は生き返ります。例えば、罪の痛悔なしに洗礼を受けた場合、後でそのことを悔やみゆるしの秘跡で罪を赦してもらった時点で洗礼の効果が生じます。すなわち罪が赦され神の子となるのです。
あるいは、もし大罪の状態で結婚の秘跡を受けたなら、その後でゆるしの秘跡によってその罪(秘跡を大罪の状態で受けたという罪も含めて)を赦してもらえば、結婚の秘跡で受けていたはずの恩恵を受けることができるのです。その場合、もう一度結婚の秘跡を受ける必要はありません。
6)心に妨げがあることを知りながら秘跡を受けるとどうなりますか。
―心に妨げがあることを知りながら秘跡を受けると、恩恵を受けないばかりでなく汚聖の大罪を犯すことになります。
このことは偉い訪問客の例でわかると思います。大罪の状態にある霊魂はゴミ屋敷のようなもので、そこにイエス・キリストをお迎えするのは失礼極まりないことです。特に聖体を拝領するときには、霊魂が清められていることを確認し、もし大罪を持っているかも知れないという恐れがあれば、先にゆるしの秘跡を受けて罪のゆるしを頂いてから、ご聖体拝領に向かうよう心がけねばなりません(CCE1385)。
ミサの中で司祭は聖体を拝領することは義務ですが、信徒はそうではありません。ただ、聖体を拝領することは強く勧められます。上に言った適切な準備をして、ですが(CCE1388)。
また堅信、病者の塗油、結婚、叙階の秘跡を受ける際には、式の前にゆるしの秘跡に与ることが勧められます。
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7)一生にただ一度しか受けられない秘跡がありますか。
―洗礼、堅信、叙階の三つの秘跡は、一生にただ一度しか受けられません。なおこの三つの秘跡は霊魂に消えない印章を刻み付けます。
『公教要理』はさらに小さな字で「この印章(霊印)は恩恵とは異なる物で、キリストの神秘体における種々の資格を意味しています。洗礼は神秘体の一員、堅信はキリストの兵士(証人)、叙階はキリストの司祭のそれぞれの資格を与えます」と説明しています。CCEは、「洗礼、堅信、叙階の三つの秘跡は、恵みのほかに、秘跡的な霊印つまり『しるし』を与えますが、これによって、キリスト者はキリストの祭司職にあずかり、それぞれの身分や役職に従って教会の一部を成すようになります。(中略)この霊印はいつまでも残り、消えることはありません。」と説明します(1121)。
ですから、「私は信者をやめた」という人がいても(時に、教会の洗礼帳から自分の名前を消してくれと頼む人もいるようです)、その人の霊魂に刻まれたキリスト信者の身分証明書は残っているのです。本人がそう望むならば、教会から離れることはできます。それは死んだ神の子のようなものです。でも、悔い改めさえすれば、もう一度洗礼を受けることなしに、神の生きた子として生き返ることが出来るのです。司祭を止めて還俗した人は、秘跡の執行は禁じられます。しかし、万が一死の危険にある人が、近くにカトリックの司祭がいない場合に、その還俗した人にゆるしの秘跡を頼むなら、その人の罪を聞きゆるしを与えることができます。それは還俗しても、司祭叙階で受けた霊印は消えずに残っているからです。審判のとき、この霊印で示される私たちの尊い身分を汚さないようにしたいものです。
ー目次へー
第2章 洗 礼
1)洗礼とは何ですか。
―洗礼とは、人が神の子として新たに生まれる秘跡です。
キリスト教は救いを説きます。救いとは天国での永遠の幸せですが、天国に行く人はこの世でも充実した悔いのない人生を生きた人です。キリスト教を知らなかったアリストテレスも人間の最高の幸せは「神のような生活をすること」と考えるのですが、同時に「それはこの世では無理」と常識的な結論を述べています。あきらかに、人間は自力では「神のように生きる」ことも永遠の幸せに至ることも出来ません。イエスははっきりとそれをお教えになりました。「人は上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3、3)。
しかし主は、同時に、人が「上から生まれる」ことができるように計らってくださいました。イエスの教えは福音(よい便り)と呼ばれますが、それは私たちが神のように生きることが出来るようになるということを教えるからです。でも、どのようにして「上から生まれる」ことができるのですか。その質問をしたユダヤ人の名士ニコデモに主はこうお答えになっています。「人は水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3、5)。容易に分かるように、「水と霊によって生まれる」とは洗礼の秘跡のことです。
ローマ時代には洗礼は受洗者が水をたたえた浴槽のような場所に入り、しゃがんで水にどっぷり浸かり、その後立ち上がるという仕方で授けたそうです。水の中に入ることは死ぬことを意味し、そこから出来ることは生まれ変わることを表しました。
ー目次へー
2)人が洗礼によって新たに生まれるとはどういうことですか。
洗礼の効果はただ罪をゆるし、教会に迎え入れることだけではありません。洗礼によって得られる恵みは、よく理解する価値があります。どれほど偉大なことが洗礼の時に起こるのかを知れば、キリスト信者になるということの有りがたさが分かりますから。
原罪(人祖の犯した罪)と自罪(自由意志で犯した罪)、およびその罰(償い)が完全に許されます。すなわち、もし洗礼を受けて、罪を犯す前に死ぬことがあれば、そのまま煉獄を通らずに天国に入られるということです。それゆえ、洗礼を死ぬ直前に受けようとする人(世に言う天国泥棒)もいるのですが、それは洗礼が与えるその他の恵みの意味を知らないからと言えるでしょう。その他の恵みとは・・。成聖の恩恵による超自然の生命を受けて神の愛子となり、天国に入る権利を得ます。成聖の恩恵こそ、アダムとエバが罪によって失ったもので、イエス様が十字架の犠牲によって人類に取り戻してくださったものです。それを受けると、人は人間であることを止めることなく、神の本性に与り、神の子(養子)となります。つまり、神に対して父と子の親しい関係になるのです。聖書によれば、これによって「私たちは『アバ、父よ』(アバはアラム語で父の意味で、とても親しい呼びかけ)と叫ぶことが出来るのです」(ローマ 8,15)。私たちには地上の父母と天の父の二人の親がいることになります。地上の親はときには親らしくないことをするかも知れませんが、天の父は、地上のすべての親の愛を合計したよりも強く私たちを愛してくださる父です。
「子であるならば、・・・相続人でもあります」(ガラテヤ 4,7)。人間の法律でも養子は親の財産を相続する権利を得ます。神の場合、その財産は存在するものすべて、なかでも天国の至福です。子である故に私たちは天国を受け継ぐ権利を受けるのです。もちろん、それを利己主義的な生き方によって(すなわち神の子に相応しくない生き方によって)、その権利を放棄することもできますが。
また原罪と自罪は完全に消されますが、アダムの罪の結果である「原罪の傷跡」(知性と意志の弱さ、苦しみ死ぬこと)は残ります。それゆえ洗礼を受けた後の信者は、神の助けを得て、「目の欲、肉の欲」と闘わねばならないのです。イエスははっきりと仰いました。「狭い門から入りなさい。・・いのちへの門は狭く、そこに通じる道は細くて、それを見つける者は少ない」(マタイ 7,13~14)と。洗礼を受ければ、あるいは神が救ってくださると信じるだけでは駄目なのです。「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。天におられる私の父のみ旨を行う者だけが入る」(マタイ 7,21)。洗礼を受けたら自動的に救われるのでも、信じればそれで大丈夫でもないのです。聖書は信者が努力をしなければならないことを至るところで教えています。
また成聖の恩恵を受けた霊魂には三位一体の神がお住まいになります。聖書の言葉を使えば、霊魂は「聖霊の神殿」となるのです。三つのペルソナの中でとくに「聖霊」を強調するわけは、聖霊こそその「たまもの」によって信者を聖なるものにするという仕事を担当するからです。聖霊が私たちを「キリストに似たもの」「もう一人のキリスト」にしてくださるお方です。
キリストの神秘体である教会の一員となります。「私たちは・・洗礼を受けて皆一つの霊によって一つの体に組み入れられ」(コリント前 12,13)とパウロが言うように、頭であるキリストと、また他の信者と密接に結ばれることになります。キリストと結ばれることによって、その祭司職、預言職、王職に参与します。つまり、神と人々をつなぐ橋になり(祭司職)、神の教えを広め(預言職)、人々を救いに導く(王職)権利と義務を持つものとなります。ただし、洗礼によって得る祭司職は「共通祭司職」と呼ばれ、神と人との仲介者になることですが、叙階の秘跡によって授けられる「役務的祭司職」(ミサやゆるしの秘跡を行う権能をともなう)とは本質的に異なります。
ー目次へー
3)洗礼の秘跡の授け方
洗礼の秘跡は水と三位一体のみ名によって授けられます。普通は「○○、私は父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と唱えながら、水を受洗者の額に流すことによって授けられます。水は汚れを清めることをイメージしていますから、ほんの少しであっても受洗者の体の上を流れることが必要です。
他方、この言葉はイエス・キリストの教えから来ています(マタイ 28-19参照)。そして、それは正確に言う必要があります。前に説明したように、式を正しく行えば、式を行う人の資質に関わりなく、必ず洗礼の効果が生じます。
江戸幕府による長い鎖国政策が終わったとき、長崎にフランス人の司祭がやってきました。司祭たちは、200年以上の長きにわたって司祭なしで信仰を守っている人たちがいることを知っていました。まだ禁教令が続いていた1858年3月17日、数名の信者が決死の覚悟で大浦天主堂に足を運び、そこにいた神父に信仰を告白します。神父たちはこの上なく喜び神に感謝しましたが、確かめねばならないことがありました。それは、この潜伏キリシタンたちの洗礼が有効かどうかでした。「4月18日神父は・・(水方の)又市と何人かの信者と会見、洗礼方式を詳しく調べることが出来た。『エゴ・テ・バプチソ・・・』というラテン語の洗礼の祈りを又市が唱え、儀式の次第も説明した。驚くべき事に、それはほとんど正確であった。幾分祈りに異同があったが意味は変わっていない」。(片岡弥吉『長崎の殉教者』角川選書89頁)。
最後に『使徒言行録』には「イエスの名による洗礼」と呼ばれていますが、これは当時まだあった洗礼者ヨハネの洗礼と区別するためにそう呼ばれただけで、式の時には三位一体の神の名を使っていたはずです。
ー目次へー
4)だれが洗礼を授けることができるのですか。
洗礼は通常、司教か司祭か助祭が授けますが、緊急の場合は一般信徒でも、さらには信者でない人でも授けることができます。
ただし、何度も繰り返しますが、式を正しく行うことが条件です。でも信者でない人の場合は洗礼が超自然の恩恵を与えるなどとは知らないわけですが、ただ「教会のすることをする意向をもつ」ことが要求されますつまり、「私は洗礼が罪を赦すなどと信じないけれど、あの人が望んでいるのだから、カトリック教会がする仕方で洗礼を授けてあげます」というなら十分なのです。
それゆえ、洗礼の仕方を信者は覚えておかねばなりません。と言うのは、司祭のいないとき、一般信徒も洗礼を授けることができるからで、病院や福祉施設ではこのような機会が訪れることは珍しくないからです。特に今回のコロナ禍で,(今の日本では)司祭は行きたいところに行けないという状況が簡単に生じてしまうことが分かりました。
ー目次へー
5)だれが洗礼を受けることが出来るのですか。
それはまだ洗礼を受けておらず、洗礼を望む人です。
洗礼は前述したように、消えない霊印を与えるので、二度授けることはしません。また洗礼は正しい仕方で行われたなら有効なので、カトリック以外のキリスト教教会や教団の人がカトリックに改宗を希望する場合、前の教会または教団ですでに水と「父と子と聖霊の名によって」洗礼を受けていたなら、改めて洗礼を授けることはしません。ただカトリック教会の信仰を告白すれば足ります。前の洗礼の仕方がはっきりと分からない場合は、「もし洗礼を受けていなければ」という条件付きで洗礼を授けます(その仕方については、『カトリック儀式書、成人のキリスト教入信式』付録(二)を参照)。
秘跡は受ける人が受ける望みを持たなければ効果はないので、むりやり洗礼を授けることはできません。万が一そういうことがあれば、その洗礼は無効です。
それでは幼児洗礼はどうなるのでしょうか。幼児はまだ知性が働かないので、洗礼の望みも持ちません。そこで、幼児が物心つくまで待って、分別がつくようになってから教理を教え、洗礼を受けたいかどうか尋ねるのが当然ではないかと思われます。しかし、教会は昔から「両親は、幼児が誕生後数週間以内に洗礼を授けられるよう配慮する義務を有する」(『教会法典』867条(1))と定めています。これは何よりも、人間はみな原罪をもって生まれるので、そのままでは天国に入れない。幼児において死の危険性が高いので、一刻も早く洗礼を授け原罪をのぞく必要があるからです。そのため、洗礼に必要な望みと信仰は、幼児に代わって教会が表明すると考えます。幼児に洗礼を授けるのは両親の責任です。幼児の体の健康に関して、両親は赤ちゃんが「僕はこれを食べたい」と言わなくても、お母さんは栄養たっぷりのお乳をあげるでしょう。赤ちゃんが「寒いから着物を着たい」と言わなくても、かわいくて暖かい服を着せるでしょう。子どもがもう少し大きくなって幼稚園や小学校に入る年になったとき、いちいちどの幼稚園や学校に入りたいかを尋ねて子どもに決めさせるのではなく、親が子どものために一番よいと思う教育施設に入れるでしょう。それなら、原罪の汚れを清め神の子にする洗礼を、赤ちゃんが「ぼく、洗礼を受けたい」と言わなくても、与えるのは親として当然ではないでしょうか。
もう一つのケースは、死期が近づいていてもう意志を表すことが出来なくなった人の場合、もし以前に洗礼を受けたいという意思表示をしていた場合、その人に洗礼を授けることは勧められます。『教会法典』には「カトリックたる両親の幼児,更に非カトリックたる両親の幼児に対しても,死の危険のある場合には,両親の意思に反しても,適法に洗礼を授けることができる」とあります(第868条第2項)。これはときどき起こることなので、司祭を呼ぶことが困難な場合、当人の近くにいる信者が洗礼を授けることができるように、普段から洗礼の授け方→注(上に示したように簡単です)を覚えておくよう心がけて下さい。
注:「緊急洗礼」の授け方
洗礼の方法は、綿や布を少し水に浸して、次の洗礼のことばを唱えながら、
額に水を少し流れる程度に注ぐ。水を注ぎながら次のことばを唱える。
「●●●●(姓名)さん、わたしは、父と子と聖霊の み名によって、
あなたに、洗礼をさずけます」(祈りの友より抜粋)
6)洗礼は救いを得るのに必要ですか。
―イエス・キリストのお定めにより、洗礼は救いを得るのに必要です。
イエスは「人は水と霊から新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない」と、また「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられる」(マルコ 16,16)とはっきりと仰いました。
しかし、教会は秘跡の洗礼を受けなくても救われる人がいると教えてきました。例えば、旧約時代の義人たち。アブラハム、モーセ、ダビデ王、預言者たち、そして聖ヨセフ・・。彼らは洗礼を受けませんでしたが、死んだ後に古聖所(黄泉)というところにいて、死去されたイエスによって天国に連れて行かれたと信じられています。またいわゆる良い泥棒は、イエスから「今日あなたは私とともに楽園にいる」(ルカ 23,43)と言われたのですから、洗礼を受けなかったこの人も救われたことは間違いありません。
このように洗礼を受けなくても救われる人があることは教会はいつも認めてきました。しかし、この点に関しては、次のことを考慮に入れなければなりません。すなわち、救いは人間の力(よい行い)の結果ではなく、神の恩恵によることです。だから、洗礼を受けずに救われた人も、神の恩恵によって救われたのです。逆に言うと、洗礼を受けることはないが、正しい生き方をしようと努めた人に、神が救いの恩恵を拒まれるはずはないでしょう。「神は救いを洗礼の秘跡に結びつけられましたが、神ご自身は秘跡に拘束されることはありません」(CCE.1257)。
それでは秘跡の洗礼を受けずに救われるというのはどういう場合でしょうか。まず血の洗礼と呼ばれるものがあります。それは「洗礼を受けていなくとも、キリストのために死ぬことによって、洗礼を受けるということです」(CCE.1258)。迫害の時代に洗礼を受けようと勉強していたが、洗礼を受ける間に逮捕され殉教する人があります。
次に同じく求道者で、洗礼を受ける前に病気や事故でなくなった人の場合、「洗礼を受けたいという明白な望みと罪の痛悔と愛がともなっていれば、洗礼の秘跡によって受け得るはずの救いが保証されます」(CCE.1259)。
しかし、一番難しい問題は洗礼のことを知らずに死ぬ人の場合です。例えばザビエルが来日する前の日本人はみんな地獄に行ったのかという問題です。神学の素人でも、真面目に生きた人が洗礼を知らなかったという理由で救われないなら神様の正義にそぐわないのではないか、と考えるでしょう。教会の教えは非人情でも非常識でもありません。それは次の第二バチカン公会議の文書にまとめられています。「実際、本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないとはいえ、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神のみ心を、恵みの働きのもとに行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる」(『教会憲章』16)。一言で言えば、良心に従って生きるなら救われる、となるでしょう。なぜなら、良心の声は神の声と言えるので、良心に従って生きる人は神に従って生きているからです。しつこいですが、そのように生きることができるのは神の恩恵の助けがあるからで、また救われるのも神の憐れみによります。
CCEでは「キリストとその教会とを知らずに真理を求め、自分の知るところに従って神のみ旨を行うすべての人は救われる」と表現しています(1260)。
ただし、私たちもよう経験するように、良心の声はあまりはっきりしないこともあります。それだけでなく、良心は間違えることがあります。また原罪の結果、良心に従っていつも生きることは容易ではありません。それゆえ『教会憲章』はこう続けます。「しかし、しばしば人々は、悪い者に欺かれ、自分たちの考えの中にむなしく迷い、神の真理を偽りと置き換えて、創造主よりも被造物に仕えたり、あるいは神なしにこの世に行きそして死んでいったりなど絶望の極みに、さらされている。したがって、神の栄光とこれらすべての人々の救いとを念じる教会は・・宣教活動を励まし支えようと熱心に努力する」と。
また「自分は良心的に生きた」と確信を持って言える人は少ないでしょうし、ましてなくなった人の生き方について外から判断することは不可能です。しかし、洗礼を受けて死ねば、上に言った条件を満たせばですが、その救霊は確実です。洗礼のありがたさをもう一度確認したいものです。
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7)洗礼を受けるのにはどのような準備をしなければなりませんか。
―洗礼を受けるには、キリストのみ教えを学び、これを信じ、罪を痛悔してキリストに従う生活の決心を立てなければなりません。
つまり、誰かが「洗礼を受けたい」と言っても、普通は「ちょっと待ってください。あなたは教会の教えを知っていますか。それに従って生きる決意がありますか」と尋ねられるのです。
長崎教区の滑石(なめし)教会の主任神父様がこんな逸話を伝えています。ある日教会に「昨晩キリストさんが現れまして、滑石教会で洗礼を受けるようにとのお告げがありました。すぐ洗礼をお願いします」と話す来訪者があったそうです。神父さんはこう答えます。「洗礼を受けるには一年くらいの準備がいるんです」。「神父さん、これはキリストさんの命令ですよ。帰りに私が死んだらどうするんですか。いつも死にたいんですからね」。「私はあんたについて、キリストさんから何も聞いておりませんので」。「私はキリストです。私の言うことが聞けんなら、神父の位を取り上げますよ」。(川添猛『露に潤うた男たち』聖母文庫110頁)。つまり、洗礼志願者が突然現れても、神父は小躍りしながら「ではすぐに洗礼を授けましょう」とは言わないのです。
聖霊降臨の日、ペトロたちの説教を聞いた人々はメシアを殺してしまったと気がついて、こう尋ねます。「我々はどうすればよいでしょうか」。それに対してペトロは答えます。「悔い改めなさい。そして罪を赦していただくためにそれぞれイエス・キリストの名によって、洗礼を受けなさい」と。この場合、ペトロの相手は熱心なユダヤ教信者で、ただイエスがメシア(救い主)であることを信じ、罪を痛悔することで十分でした。とは言え、洗礼を受けた後で、教えをより深く学んでいます。「一同は、ひたすら使徒たちの教えを守り、兄弟的交わりを大切にし、パンを手で分け(ミサのこと)、祈りをしていた」とあります(使徒行録2,42)。
洗礼を受けるには信仰が必要です。信じるためにはまず信じる内容を知らねばなりません。それゆえ緊急ではない普通の場合は、教えを学びキリスト教的生活に慣れていくための求道者の期間があります。成人洗礼が普通であった古代ローマでは、求道者がよく教義を学び信仰生活の基礎をしっかり固めるように長い求道期を設けていましたが、中世ヨーロッパでは幼児洗礼が通常の形となりました。そのため求道期間は、洗礼前ではなく洗礼後におかれるようになりました。すなわち幼児の要理教育です。しかし、成人洗礼の場合は、第二バチカン公会議によって「数段階に分けられる成人の洗礼準備制度」が復興しています。
他方、洗礼を受けるために必要な信仰は、洗礼後に成長し続けなければなりません。洗礼を受ければ、それで「いっちょ上がり」ではないのです。幼児洗礼の場合は当然ですが、成人洗礼においても、聖霊降臨のときに洗礼を受けた人々のように、洗礼後の信仰教育に心がけることは大切です。この拙文はそのために書いていると言っても言い過ぎではありません。
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8)洗礼を受けるとき神のみ前に何を約束しますか。
―洗礼を受けるとき、悪魔と、そのしわざと、その栄華とを捨て、キリストの教えを信じ、それを守ることを神のみ前で約束します。
これはキリストを信じると言うことが単に理論的な知識ではなく、行動にあわらされる実践的な行為であるからです。要するに「信じればそれで十分」ではないのです。イエスご自身がはっきり仰っています。「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。天におられる私の父の御旨を行う者だけが入る」(マタイ 7,21)。
でもこう言うと、「私はそんなに立派な人間ではない。そんな聖人君主のような生活は出来ない」とつぶやく人もいるかも知れません。ここで思い出すべきは、生まれつきの聖人はいないということです。みな原罪とその傷を負って生まれてくるのです。聖パウロが「善いことをしようという意志はありますが、行いが伴いません」(ローマ 7,18)と言っています。この箇所はパウロ自身のことではなく、すべての人間の状態を指しているという解釈があり、そう考えて間違いないでしょう。ともかく、自らの弱さを痛感していたパウロは素晴らしい聖人でした。これは神の恩寵とそれに助けられた行いによるのです。結論は簡単です。信者は皆、各自の欠点や弱さと闘う必要がある、ということです。「自らを聖化(神に似た者になる努力)する義務がある。そう、あなたにも、この義務があるのだ。聖化は司祭と修道者だけの仕事だと、だれが考えるのだろうか。例外なくすべての人に、主は言われた。『あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい』」(聖ホセマリア・エスクリバー、『道』291)。
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9)代父や代母にはどのような務めがありますか。
―代父や代母には、受洗者の約束の保証人となり、その約束を守らせる務めがあります。
CCEにはこうあります。「代父母は、新しい受洗者が幼児であると成人であるとを問わず、彼らがキリスト教的生活の旅路を歩んでいくのを助けることができ、しかもその覚悟のある、しっかりした信仰者でなければなりません」(1255)。(また代父母については『カトリック儀式書、幼児洗礼』10~12も参照)
教皇ベネディクト16世は、ローマ教区の司祭たちとの会合で青年司牧について尋ねられた際、しっかりした信仰を生きる大人が青年に付き添うことの大切さを強調されました。信仰は個人的なものであると同時に、教会的共同体的でもあります。人生において模範となる人を知り付き合うことはとても有意義ですが、信仰生活においてもまったく同じことが言えます。
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10)なぜ霊名(洗礼名)に聖人の名をいただきますか。
―霊名に聖人の名をいただくわけは、その聖人のご保護を願い、その模範に従って新しいキリスト教的生活と完徳とに励むためです。
CCEは、十戒の第二戒の説明において、キリスト教的名前という項でこの問題に振れています。「キリスト者は教会で洗礼名を授かります。洗礼名として、ある聖人の名前、つまり、キリストに倣って忠実な生活を送った弟子の名前をいただくことができます。保護の聖人は愛の模範を示し、執り成しをしてくれます。『洗礼名』として、あるキリストの神秘、あるいはあるキリスト教的徳を表すものをつけることもできます」と(2156)。聖人の名前以外の洗礼名としては、エンカルナシオン(受肉)、アナスタジア(復活)、コンセプシオン(聖母の無原罪の御宿り)、アスンシオン(聖母の被昇天)などはどこかで聞かれたかも知れません。どの聖人の名前にしようかと迷われる場合、池田敏雄神父の『教会の聖人たち』に目を通されるなら、お気に入りの聖人が見つかるかもしれません。
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第3章 堅 信(けんしん)
1)堅信とは何ですか。
―堅信とは、信仰を強め、それを正しく表すために聖霊の恩恵を与える秘跡です。
堅信については、洗礼とは違ってイエス様がいつどのように制定されたかの言及はありません。しかし、『使徒言行録』に次のような箇所があります。ステファノの殉教の後、エルサレムの教会に対する激しい迫害が始まったので、信者たちは四方に散っていきました。助祭のフィリポはサマリアに下り、そこで人々にキリストのことを伝えます。「群衆はフィリポの話しを聞き、その行ったしるしを見て、・・・信じて・・洗礼を受けた」(8章 4~6.12)。すると「エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペトロとヨハネを送った。二人はサマリアに下っていき、聖霊を受けるように、彼らのために祈った。・・ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと彼らは聖霊を受けた」(14~17)。
この箇所ではっきり分かることは、1)洗礼とは異なる秘跡があった。2)その秘跡は聖霊を与える効果があり、執行者は使徒でなければならなかった、ということです。これが堅信の秘跡だと教会は解釈しているのです。西方教会では、幼児洗礼が広がるにつれ、洗礼と堅信が別々のときになされるようになりました。また農村に小教区が増えると、司教がすべての洗礼式に立ち会うことができなくなったことも、洗礼と堅信が分けて行われるようになった理由です。
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2)堅信が聖霊の恩恵を与えるとはどういうことですか。
―堅信が聖霊の恩恵を与えるとは、(1)成聖の恩恵を増し、(2)聖霊の“たまもの”をいっそう豊かに授け、(3)信仰を正しく表すための力を与えることです。
すでに見たように洗礼を受けると信者は聖霊を受けます。では堅信の意味はなにでしょうか。それは、堅信において洗礼でいただいた恵みが増大し、深められるということです。以前、堅信を成人式に例えましたが、まだ柔らかく成長過程にある子どもの体のような霊魂が、堅信によって強くたくましい大人の体のようになると考えればどうでしょうか。その結果、世間の冷たい嵐の中でも信仰を保持し表明していくことが出来るのです。
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3)聖霊の“たまもの”とは何ですか。
―聖霊の“たまもの”とは、神の勧めにすみやかに従えるように信者の心に授けられる特別な超自然のお恵みです。
聖霊の“たまもの”は、伝統的に「上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、畏敬」の七つとされます。これと似て非なるものが徳です。第三部(「掟」の部)で詳しく見ますが、徳とはよい行いをし易くさせる習性です。たとえば、賢慮は「聖霊のたまもの」であると同時に徳の一つでもあります。賢慮の徳を持っている人は、分別ある行いをしやすい資質を持っている。それに対して聖霊のたまものは、聖霊の勧め(よい行い以外を聖霊が勧めるはずがない)を「すばやく実践する」ようにさせる助けと言われます。ですから、賢慮の徳を持っている人は、普通は無分別な行いをしませんが、実際に聖霊のたまものを与えられれば、より迅速に分別ある判断を下し、実行に移すことが出来るということです。
この七つのたまものを簡単に見ていきましょう。上智、聡明、賢慮、知識の四つは、どれも知性に関係します。これは、知性は一つであっても、対象によって働き方が異なるという現実からきます。例えば、勉強においてはあまり成績がよくないが、実生活に関しては知恵が働く人がいます。同じ勉強でも数学は得意だが英語は苦手というようなことがありますが、これらの現象は知性に関して種々のたまものが必要であることを理解させてくれるでしょう。
上智とは、知性に永遠の価値あるもの(神、天国など)を理解させ愛させる賜です。これがなければ、私たちは始終、はかないこの世の出来事や物品のことだけで頭がいっぱいとなるでしょう。聡明とは、理性を超えた信仰の真理や神の奥義の理解を助ける賜です。これがなければ、神の子の受肉や教会の奥義、前章でみた秘跡や洗礼の素晴らしさなどは理解困難になるでしょう。賢慮とは人生や日々の生活において何が神の栄光と人々の救いに役立つかを悟らせる賜です。これがあれば、日常生活の中で直面する困難に際して、正しい判断を下すことができるでしょう。知識とは、被造物を正しく用いることを教える賜です。これも被造物を使う必要のある世俗の中で生活する信者に大切な賜です。
剛毅とは信仰生活を忠実に勧めるために必要な勇気と力を与える賜。孝愛とは、諸聖人を崇敬し、隣人に対し慈悲深く寛大に奉仕させる賜。畏敬とは、神の子として父なる神を侮辱することを恐れさせる賜、すなわち悪を捨てて善に向かわせる賜です。(聖霊のたまものについてフランシスコ教皇様がとても実践的な説明をされています。『秘跡。聖霊のたまもの。教会―教皇講話集』ペトロ文庫)。
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4)信仰を正しく表すとはどういうことですか。
―信仰を正しく表すとは、(1)信仰に基づいた生活をし、言葉と行いとをもって信仰を表し、(2)おのおの力に応じて布教に協力し、(3)信仰の敵を防ぎ、必要とあれば信仰のために命を捧げることも恐れないなどのことです。
キリスト信者がこの世界で生活するのは、「羊がおおかみの中で」暮らすようなものと主は仰せになりました。自由や人権や平和がかつてなかったくらい叫ばれる現代においても、実は多くの場所でキリスト信者は迫害されています。信教の自由が踏みにじられているのです。聖ヨハネ・パウロ2世は20世紀は歴史上それまでなかったほど多くの殉教者を出したと言われましたが、21世紀になっても迫害の勢いは衰えていません。例えば、ナイジェリアではこの12年間で4万3千人のキリスト信者が殉教しているそうです(2021年の統計)。
また流血の迫害はなくても、法律や制度や文化によってキリスト教信仰を閉じ込めようとする流れは、特に先進国においてよく見られます。欧米では、家庭のあり方や教育の問題で信仰と常識にしたがって生きようとすると、「少数者の権利をないがしろにしている」とか言われて訴えられたり、男女別学の学校には補助金は与えないという法律があったりします。現代世界は「多様性を尊重すべきだ」とか「あらゆる考えに寛容でなくてはならない」と相対主義を主張するのに、それに反対する考えをたたき潰す不寛容なのです。その矢面に立っているのがカトリック教会です。日本はどうかというと、面立ってキリスト教を攻撃する運動はありませんが、それでも教会の信仰と道徳を生きようとすると、反対にあったり辱められたりすることはあります。それゆえ、「ヘビのように賢く鳩のように無邪気で」かつ「最後まで堅忍できる」強い人間になる必要があると言っても大げさではないでしょう。
5)堅信を授けるのは誰ですか。
―堅信を授けるのは普通、司教です。
1)で見たように、サマリア人が洗礼を受けたとき、彼らに堅信を授けるためにはエルサレムからペトロとヨハネが送られたのは、堅信を授けるのは司教だったということを示しています。しかし「普通は司教」というのは、例外があるということです。それは成人洗礼のときで、その場合は洗礼を授けた司祭が洗礼の直後に堅信の秘跡を授けます。また司教は司祭に堅信の授与を委任することも出来ます。洗礼を受けた幼児が死の危険にある場合には、司祭は許可なしに堅信を授けることができます(『教会法典』883条3)。
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6)どのようにして堅信を授けますか。
ー堅信の秘跡は、受堅者に按手(あんしゅ)して「父のたまものである聖霊のしるしをうけなさい」といいながら、聖香油を塗油することによって授けられます(CCE.1300)。
按手は「使徒時代から引き継がれてきている聖霊が与えられるときのしるしです」(CCE.1299)。聖香油は司教が聖木曜日のミサの中で、聖別したオリーブ油です。東方教会では、堅信の秘跡のことを「聖香油の注ぎ」とか「(香油を意味する)ミュロン」と呼んでいます(CCE.1289)。
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7)堅信の秘跡を受けるにはどのような準備をしなければなりませんか。
―堅信の秘跡を受けるには、成聖の恩恵をもち、教理(特にこの秘跡について)をよく学び、聖霊のたまものを熱心に祈り求めなければなりません。
CCEは「堅信の準備にあたっては、キリスト者がキリスト教的生活の使徒的責務をさらによく担えるように、そのたまもの、その呼びかけにいっそう親密に応じる態度を培えるように導くことを目指さなければなりません」として、その準備教育のためとくに小教区の責任を挙げています(1309)。
なお、堅信を受ける年齢は『教会法典』では「分別のつく年齢の信者」とありますが(891条)、日本の司教協議会はそれを「10歳から15歳までの者に授けるのを原則とする」と決めています(『教会法典』xii, 14)。成人洗礼の場合は、洗礼式の直後に堅信を受けるのが普通です。
8)堅信の秘跡は救いを得るのに必要ですか。
―堅信の秘跡は、救いを得るのに必ずしも必要ではありません。しかし、神のお与えになる大切な恵みですから、これをなおざりにしてはなりません。
堅信の価値を理解するとは、聖霊の価値を理解することです。第一部で見たように、聖霊は神の第三のペルソナで、イエスのご昇天の後、信者を聖化し教会を導く役割を果たすお方です。
聖化は、人間の努力の結果到達できるものではなく、神の恩恵の結果です。最後の晩餐でイエスは弟子たちに「私を離れては、あなたたちは何もすることができない」と言われました(ヨハネ15,5)。この言葉は超自然の行いについて完全に当てはまります。つまり、神の助けがなければ、聖化の第一歩である祈りすら出来ないのです。パウロが「私たちはどのように祈るべきかを知りませんが、聖霊ご自身が、言葉に表せないうめきを通して、私たちのために執りなしてくださるのです」(ローマ8,26)と言っている通りです。
聖化されるとは、聖なる者になることですが、それは人間として完成されることを意味します。もちろん、この世では、欠点も欠陥もない完全な人間はありえません。しかし、その理想に向けてたえず努力するなら、ある意味で完全な者と言えるでしょう。その完全な人間というのは、神への愛に支えられて、隣人愛を生きる人です。そういう人はとても魅力的な人物のはずです。でもそうなるために聖霊の助けが不可欠なのです。
でも教会の中にも、子どもの堅信を特段望んでいない親もいます。子どもが堅信のクラスに行くよりも、塾に行ったりクラブに行ったりする方を優先させるので、主任神父様たちが困っているという話しは珍しくないようです。この親の態度は、子どもにとっては聖霊の賜などより、学歴やスポーツや芸術の世界で成功する方がずっと価値があるという考えを表します。本当にそうでしょうか。
昔聞いた話ですが、ある信者の家に一人の子どもがいました。お父さんは中学しか出ておらず社会で苦労したので、子どもにはよい学歴をと思い、「教会学校は行かんでもよいが、よく勉強しなさい」と言っていました。子どもは親の期待に応えよく勉強し、そのおかげで一流大学と言われる大学に入り、卒業後は大企業に就職し、やはり人もうらやむよい家柄の娘さんと婚約しました。いよいよ結婚式の日取りが決まったのですが、なんと親は招待されなかったのです。「嫁さんの家族の人はみな高学歴なので、中卒のお父さんが来てもらっては恥ずかしい」と言われたそうです。子どもの幸福を願った親のことを考えると心が痛みますが、その親の人生観が子どもに伝わったことは残酷な事実です。ところで、このような世間の価値観をもって生きるのは幸せでしょうか。教会学校に行っていたら「神の第四戒、両親を敬うべし」を学んでいたことでしょう。そして、よい人間になるための多くの重要なこと、時には世間では誰も教えてくれないこと、を習ったはずです。もちろん、真面目に学ぼうとしていたら、の話しですが。
堅信によって聖霊がより豊かに与えられる、と言いました。体の命を保持するためには、毎日ご飯と梅干しを食べていたら死なずに生きていけるかも知れません。しかし、現代ではそれで満足する人はいないでしょう。より健康になりより長生きできるためと言って、栄養のある肉や魚や乳製品や野菜を取るのではありませんか。これを信仰生活に当てはめてください。死なない程度に生きていくためには、洗礼、そしてゆるしの秘跡で事足りるかも知れません。しかし、聖霊が豊かに与えられることで、信仰生活ももっと豊かになるのです。だとしたら、堅信を軽んじることは大いに損をすることになるのではないでしょうか。
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第4章 聖体
聖体は「キリスト教生活全体の泉であり頂点」とも「秘跡の中の秘跡」とも「他のすべての秘跡は聖体の秘跡を目的とし、それに秩序づけられている」とも言われます。また上述したように、洗礼、堅信と並んで「キリスト教入信の秘跡」を形成します。信者は「洗礼によって新たに生まれ、堅信の秘跡によって強められ、感謝の祭儀(聖体の秘跡)の中で永遠の命の糧で養われる」のです。それほどの秘跡ですので、『公教要理』は、(1)聖体の制定とキリストの現存、(2)ミサ聖祭、(3)聖体拝領、(4)聖堂に安置された聖体、の4つの面に分けて説明を試みています。
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(1)聖体の制定とキリストの現存
1)聖体とは何ですか。
―聖体とは、パンとぶどう酒との外観のもとに、イエス・キリストの御からだと御血とが実際にまします秘跡です。
パンとぶどう酒の外観(CCEでは「形態」)とは、パンとぶどう酒との形、色、味など五感によって感じられるものを指します。
「実際に」とは、聖体には2千年前にベトレヘムで生まれ、ナザレで育ち、ローマ総督ポンティオ・ピラトの下で十字架につけられ、3日目に蘇ったイエス・キリストがおられるということです。
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① 福音書の記述からみる聖体における主の現存
聖体のパンは「見ても触れても味わっても」それがイエスであるとは分かりません(聖トマス・アクイナスの”Adoro te devote”の中の一節(注1))。ではなぜそう信じるのかというと、「イエスがそう言われたから」です。でもそう言うと、第一部の最初に「カトリックの信仰は盲目的ではない」と大上段に構えたのを忘れたのですかと言われるかも知れません。
繰り返しになりますが、カトリックの教えには、理性では理解できないが、神が啓示されたので、それを信じる真理(これを奥義、神秘と呼ぶ)があります。聖体はその神秘の一つで、確かに信じるのが難しいものです。CCEは御受難とご聖体が、イエスの弟子にとって最も大きなつまずきであったと言っています(1336)。そうであっても、理性でなぜ信じられるかを少しは説明できます。それを試みてみましょう。
聖体の秘跡とミサが何であるかを理解するための出発点は、聖体のパンにはキリストが現存されているという信仰です。それで、『公教要理』が最初にこの点を取り上げるのは真に正鵠(せいこく)を射ていると言えます。
聖体の制定については、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書とパウロの『コリント人への前の手紙』に最後の晩餐においてイエスが聖体を制定されたことがはっきりと書かれています。これはミサの中で聖変化の際に司祭が唱えるので、信者なら誰でも知っているでしょう。「(主イエスは)パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたたちのために渡される私の体である』。食事の後わりに同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯、・・・』」。つまり、イエスは最後の晩餐の中で、パンに向かって「これは私の体である」と、杯に入れたぶどう酒に「これは私の血」と言われたわけです。この言葉は、もし普通の人間が言ったら、それを聞いた人は「こいつは頭がおかしいのでは」と思うでしょう。少なくても「この謎みたいな言葉は一体何を意味するのか」といぶかしく思うでしょう。しかし、晩餐の席にいた弟子たちの間には動揺は起こらなかった。なぜでしょうか。
それはヨハネ福音書に述べられている一つの場面がヒントをくれます。ヨハネは最後の晩餐を共観福音書よりずっと詳しく叙述しているのに、聖体の制定についてはまったく触れていません。その代わり、その一年ほど前にカファルナウムという町で行われた「天から下ったパン」についてのイエスとユダヤ人との問答を第六章で詳しく紹介しています。その際、イエスは「私は命のパンである」と言われ(ヨハネ6-35)、「私の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内には命はない」
(ヨハネ6-53)と断言されました。「肉を食べる、血を飲む」という言葉は聞けば誰でも気持ちの悪くなる表現で、このとき「弟子の多くはイエスに背を向けて去った」(ヨハネ6-66)。それを見てイエスはペトロたちにもどうするか態度を決めるよう求めるのですが、ペトロは「主よ、あなたは永遠の命の言葉をもっておられます」と言って、イエスのもとに留まりました。
でもペトロたちも「(イエスの)肉を食べ、血を飲む」という言葉の意味は分からなかったのです。おそらくそれ以降、彼らの間で時々この問題が話し合われたと思います。この疑問を心にとどめていた彼らは、最後の晩餐でイエスが「これは私の体である」と言われたとき、合点が行ったのです。
また、弟子たちは、すでに3年くらいイエスと寝起きをともにし、何度も奇跡を目にした結果、イエスの言葉には力があることを納得していたでしょう。例えば、嵐に「静まれ」と言うと湖は凪になったり、一言で病気を治したり、死人を蘇らせたことも目にしました。そこで、パンに「これは私の体である」と言えば、そのままを受け取った、と説明する人もあります。
教会は最初からこの現存を固く信じていました。聖パウロはコリントの教会の信者にした「ふさわしくない状態で『主のパン』を食べたり、『主の杯』を飲む人があれば、主の体と血に対して罪を犯した者となるのです」という注意にそれがはっきり現れています(コリント前11~27)。
注1「聖トマス・アクイナスの”Adoro te devote”」
ー目次へー
② 教会の歴史における主の現存の教え
パンとぶどう酒がキリストの体と血であるという、ちょっと信じられないような教えに疑いの声を上げる人は最初の1500年の間ほとんどいませんでした。宗教改革を始めたルターもこの教えを堅持していました。初めてこれを否定したのは、ルターに少し遅れてスイスで宗教改革を始めたツヴィングリー(1484~1531:もとは司祭)です。彼は「これは私の体である」という言葉を、「これは私の体を意味する」というふうに象徴的に解釈しました。ルターはこれに激しく反発します。政治的な理由から両者を和解させようとする努力にも関わらず、この点についての妥協はできませんでした。ルターの後に雨後の竹の子のように生え出た無数のプロテスタントの教団は、現存を否定する説を採ります。
それに対してカトリック教会はトレントの公会議において、聖書に基づくそれまでの教えを再確認し、「パンとぶどう酒とが聖別されたのち神聖なる聖体の秘跡の中に、真の神にして人である我々の主イエス・キリストが、それらの感覚的なものの形色のもとに、真に、現実に、実体的に、含まれている」と宣言しました。(DS1636)
その後、このカトリック教会の教えは、当然のことなのですが、まったく堅持されていました。しかし、第二バチカン公会議を機会に、聖体におけるキリストの現存を否定する説も再び現れました。それは「聖体は象徴的な意味でキリストなんだ」というプロテスタントの考えの二番煎じと言えます。これを憂いた教皇聖パウロ6世は1965年に回勅『ミステリウム・フィデイ(注)』を出されて、その誤りを示されました(この回勅は是非読んでいただきたいです)。そして、聖体におけるキリストの現存を否定することの結果として、ミサが犠牲ではなく単なる会食になること、私的に挙行されるミサは無意味となり、聖体崇敬は衰えるなど大きな影響が出ていることを指摘されました。(これらの逸脱については、聖ヨハネ・パウロ2世の回勅『教会に命を与える聖体』序文10にも触れられています)。
実際、もし聖体がキリストでなければ、聖櫃は意味がなくなります。そもそも聖体の前でお辞儀をしたりすることは偶像崇拝になってしまいます。長崎のある神父様が侍者をしている高校生に「君は、ご聖体がイエス・キリストだと信じるか」と尋ねましたら、「はい信じます」と答えたので、「なぜそう信じるのか」と再び尋ねました。そうすると彼は「もしそうでなければ、神父様が毎日ご聖体の前に跪いたりお辞儀をしたりしているのは、馬鹿なことになるでしょうから」と答えたそうです。実に良識ある答えですね。
先ほど紹介した「天から下ったパン」の説教で、イエスが「わたしの体を食べ、わたしの血を飲む」と言われ、弟子たちの多くが「とんでもない話しだ。とても聞いていられない」と言ったことに注目してください。もしイエスが「わたしの体を意味するしるしを食べ」のような表現を使っていたら、彼らも拒否反応は示さなかったでしょう。しかし、イエスははっきりと「わたしの体」、「わたしの血」と言われたのです。最後の晩餐で「これはわたしの体である」と言われたときも、同じです。「これはわたしの体を意味する」とは言われなかったのです。私たちは、聖体拝領において、イエスご自身を食べるのです。イエスの象徴を食べるのではありません。
また「聖体はキリストを信じる人にとってはキリストである」という説もちらほら聞かれますが、これもイエスの上の言葉とは相容れません。そもそも「信じる人にとっては」という時点で、それが「客観的には」すなわち現実にはキリストではないと言っているのです。もしそうなら、キリストを信じない人、あるいは信者でも真摯に信じていない人にとっては聖体はただのパンに過ぎないわけで、聖体拝領によって何の影響も受けないはずです。しかし、パウロは「主の体をわきまえずに食べたり飲んだりする者は、自分自身に対するさばきを飲み食いしている」と言って、よい準備をして聖体拝領をすることを命じています(1コリント 11-29)。これは信じない人にとっても「パンはキリストである」ことを意味しているわけです。
いずれにせよ、「真理は明快である。あいまいな真理はない」ということを考えましょう。2+3は5であって、5.1でも4.9でもないのです。だから、聖体は「キリストの体である」、か「キリストの体でない」のかどちらか一つです。「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」という主の教えを思い出しましょう。「聖体はキリストの体である」と信じるのか、信じないのか。信じるならその信仰にしたがって聖体に最大限の愛と尊敬を払いましょう。
2)イエス・キリストはいつ、どのようにして聖体の秘跡をお定めになりましたか。
―イエス・キリストは、ご受難の前、最後の晩さんのときに、パンと取ってこれを祝し、使徒たちに与えて、「取って食べよ。これはわたしのからだである」と言われ、次に杯を取ってこれを祝し、使徒たちに与えて、「この杯から飲め。これは多くの人のために流される新約のわたしの血である」と仰せられ、終わりに使徒たちに、「わたしの記念としてこれを行え」と命ぜられて聖体の秘跡をお定めになりました。
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3)イエス・キリストの「これはわたしのからだである」とのみ言葉によってどのような結果が生じましたか。
―イエス・キリストの「これはわたしのからだである」とのみ言葉によって、パンはキリストの御からだに、ぶどう酒はキリストの御血(おんち)に変化しました。イエス・キリストはその御からだと御血とを新約のいけにえとして御父におささげになったのです。
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4)聖体にはイエス・キリストの御からだと御血とだけがましますのですか。
―聖体にはイエス・キリストの御からだと御血とだけではなく、そのご霊魂も神性とともにましますのです。
すなわち、神性と人間性とを持つイエス・キリストが実際にましますのです。キリストは、パンとぶどう酒との外観のどの部分にも同様に現存しておられます。
このキリストの現存は神の全能の御働きによるものです。そしてこの現存は理性によって分かることができない信仰の奥義です。
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2)~4)をまとめて説明します。
ごミサの中で聖変化のあと、司祭は「信仰の神秘」と力強く宣言します。これはパンとぶどう酒がキリストの御からだと御血に変化したことは、信仰によってのみ知り得る神秘だと宣言しているのです。しかし、教会はつねに神の啓示を、その神秘に十分に尊敬を払いながら、少しでも理解しようと努めます。それが神学の営みです。この営みの中で哲学が使われます。それはちょうど物理の発見を数学を使った理解し表現するのに似ています。神学の中で、第一部で見たように、聖書には現れないペルソナや実体などという哲学の言葉を使うのは、聖書の教えを曲げるのではなく、それをより正確に理解し表現するためです。物理の発見である、落下する物体の位置 y は時間tの2乗に比例するという真理を、y = t²という方程式で表しても、物理を数学に貶めたと憤る人はいないでしょう。ではご聖体の神秘の場合、どういう説明をするのか見てみましょう。
カトリックの神学は、パンとぶどう酒がキリストに変化するとはどういうことかを説明するため、実体と偶性という哲学の概念を使います。少しこの哲学の概念を解説してみます。この世界にあるものはすべて変化します。しかし、変化すると言っても、変化の前と後で、変わる部分と変わらない部分があります。例えば、あなたは3年前の自分と今の自分を比べれば、身長や体重には変化があったでしょう。また住む場所も変わったかも知れません。しかし、3年前と同じあなたですよね。この変化においては、大きさや形や場所は変わっても、誰であるかは同じです。背が伸びて体重が増えたので別の人になることはありえません。こういう変化で、変わらない部分を実体substantiaと呼び、変わった部分を偶性accidens(CCEでは形態と言う言葉を使っています)と呼び、このような変化を偶性的変化と呼びます。実体は、そのものが何か(誰か)を示すもので、それ自体で存在できますが、偶性は実体がなければ存在できません。例えば、色や大きさや形や重さなどはそれだけで存在できず、何かが白い、大きい、丸い、重いわけです。白い紙、白い石が存在するのであって、白い色が独立して存在することはありません。もしあったら是非見たいものです。
自然界には偶性的変化だけでなく、実体自体が変化する変化があります。例えば、物が破壊されるときや生物が死ぬときがそれで、これを実体的変化と言います。この変化では、最初にあったものは消えて別のものになります。
実体と偶性の概念について概ね理解できたところで、ご聖体に戻りましょう。パンとぶどう酒であった(パンやぶどう酒の実体を持っていた)ものが、キリストになる(キリストの実体になる)と考えると、これは実体変化と言えます。しかし、自然の実体変化ではこの変化に伴って偶性も変化します。例えば動物が死ねば、もうその体は弾力性を失い、色や臭いも変わっていくでしょう。ところが、御聖体の変化の場合は、実体だけ変化し、偶性(味や色や香り)はまったく変化しないのです。これは超自然の奇跡です。聖変化した後のパンはパンの形態を持つが、もうパンではなくキリストなのです。それで「カトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化(トランス・スブスタンチアシオン)と呼びます」(トレント公会議。CCE.1376)。この全実体変化という言葉は大切です。なぜなら、聖体におけるキリストの現存を正確に示すからです。聖パウロ6世は「それがただの『トランス・シグニフィカチオ』(意味転換)と『トランス・フィナリザチオ』(目的変化)であるかのように言う」ことを非難されました(回勅『ミステリウム・フィデイ』8頁)。この理解に少し役立つものはルターの理論です。彼は確かに聖体にはキリストがおられると主張するのですが、パンの実体も残ると言うのです。もしそうなら、聖体はパンであり同時にキリストだとうことになり、パンの全実体が変化したのではなくなります。
聖体においては実体がキリスト、偶性はパン、あるいはぶどう酒の性質ですが、今度はこの偶性が変化すると、実体も変化すると考えます。パンは長持ちしますが、ぶどう酒はすぐに酢になります。そこで御血が酢になれば、もうそれは聖体(キリスト)ではなくなったのです(CCE.1377)。
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5)「わたしの記念としてこれを行え」と言われたイエス・キリストのみ言葉は何を意味していますか。
―「わたしの記念としてこれを行え」と言われたイエス・キリストのみ言葉は、キリストが使徒たちとその後継者にパンとぶどう酒とをご自分の御からだと御血に変え、それを神にささげ、信者に授ける権能をお与えになったということを意味しています。
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6)聖体に関する権能を使徒たちから受け継ぐのはだれですか。
―聖体に関する権能を使徒たちから受け継ぐのは司教と司祭です。
まず重要なのは「記念」という言葉の意味です。CCEによれば、聖書に出てくる「記念」という言葉は「過去の出来事を単に想起することではなく、神が人間のために行われた偉大なわざを宣言することを意味します。これらの出来事を祝う典礼祭儀の中で、出来事は何らかの形で現存し、現在化されます」(1363)。簡単に言うと、ミサが挙げられるとき、最後の晩餐に行われた聖変化がもう一度繰り返されるということです。このことはすぐ後でミサの説明をするときに詳しく見ます。
パンとぶどう酒をキリストの御からだと御血に変えるのは、人間にはできないことです。それゆえ、イエスご自身が使徒たちにその力(権能)を与える必要がありました。つまり、「わたしの記念としてこれを行え」と言われたとき、使徒たちは司教(司祭)になったのです。言い換えると、聖体の制定と同時に、叙階の秘跡も制定されたのです。このことも後で叙階の秘跡を説明するときに詳しく見ましょう。
7)イエス・キリストが聖体の秘跡をお定めになったのはなぜですか。
―イエス・キリストが聖体の秘跡をお定めになったのは、(1)ミサ聖祭において新約の犠牲を世の終わりまでささげ、(2)聖体拝領において信者の超自然の生命を養い、(3)常に人々とともに住むためです。
この三つの理由すべてにキリストの人間に対する無限の愛が現れています。教皇様の聴罪司祭カンタラメッサ神父様の言葉では「(聖体の)すべてを説明する理由は、キリストが私たちを愛されたということです」と断言しておられます(『ミサと聖体』聖母文庫27頁)。聖ホセマリアは、イエスは弟子たちとの別離において、弟子たちの間に残りたかった。人間なら、例えば家族の父親が仕方なく愛する家族と離れなければならない場合、写真のような何か思い出になるものを残していくのがせいぜいでしょう。しかし神は去ると同時に残ることができた。すなわちパンの形で残ることにされたのだ、と説明しています(『知識の香』、「御聖体―信仰と愛の奥義」83)。では上の三つの理由を、次の(2)ミサ聖祭、(3)聖体拝領、(4)聖堂に安置された聖体で一つ一つを詳しく見ていきましょう。
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(2)ミサ聖祭(せいさい)
8)ミサ聖祭とは何ですか。
ーミサ聖祭とは、救いの犠牲であるイエス・キリストの御からだと御血とが、司祭の手をとおして神にささげられる教会の祭りです。キリストは最後の晩餐(ばんさん)のときにこれをお定めになり、世の終わりまで司祭をとおしておささげになります。
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9)犠牲を神にささげるとはどういう意味ですか。
ー犠牲を神にささげるとは目に見える供え物を神にささげることによって、最高の主である神への、人の心の奉献を表すという意味です。
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① 犠牲とは何か。
ー神は私たち人間にとって、創造主、主宰者、贖い主です。人間は神の前でほとんど無のような存在です。この関係を理解すれば、人間の第一の義務は神を礼拝(賛美)することでしょう。あらゆる民族には神を礼拝する儀式があります。人間は本性的に宗教的と言われる所以(ゆえん)です。この礼拝をささげる目的としては、賛美、感謝、祈願、赦しを願うの四つがあります。そして、そのために礼拝をする仕方として、人間が大切にしている物を神にささげる(供える)というやり方があります。例えば、イスラエル人は家畜を、日本人は農産物を神にささげていました。メキシコの先住民アステカは、征服した捕虜の若者の心臓を神にささげていたそうで、旧約聖書によれば、カナーンの民族は子どもを神にささげており、神はこれをイスラエル人に堅く禁じています。
さて、キリストの十字架は完全な犠牲です。「完全な」というのは、旧約の犠牲は家畜をささげるのですが、それでは神様を本当に満足させることはできません。つまり不完全な犠牲でした。これに対して、十字架ではキリストご自身が御父にささげられましたが、これが唯一父なる神が嘉(よみ)せられる犠牲でした。聖書はこう言います。「雄牛や雄やぎの血は、罪を取り除くことができません。(中略)神のみ旨にしたがって、イエズス・キリストの体が一度だけささげられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです」(ヘブライ 10,1.10)。
ただし、御父が御子のいけにえを喜ばれたというのは、「御子が十字架上で死んでいかれる最中に、天国で平然としている」わけではありません。「奪うだけで何一つ与えない御父、身代金としてご自分の子の血を要求する御父」というのは間違った解釈です。御父が御子のいけにえを喜ばれたのは、そのお陰で人類の救いが可能になったからです(カンタラメッサ『ミサと聖体』、28~29頁)。
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② ミサは十字架の犠牲の再現である。
ー理解が難しいのは、ミサがこの十字架の犠牲と同じだという教えです。その理解のためには犠牲というものがどういうものかを説明することが必要です。犠牲(いけにえ)は、ささげる者、ささげられる物、ささげる相手という三つの要素からなります。ミサでは、司祭がパンとぶどう酒をキリストの体と血に変え(聖変化)、それを御父にささげるのです。つまり、ささげる者は司祭、ささげられる物はパンとぶどう酒の形態にあるキリストご自身、ささげる相手は、父なる神です。次は十字架の犠牲を考えてみましょう。カルワリオでは、イエス・キリストが、ご自分を、父なる神におささげになりました。そういうと「しかしミサではささげる者は司祭であって、キリストではないのでは」と反論されるでしょう。これはミサにおいては司祭はキリストになり代わって(in persona Christi。頭であるキリストの代理者として)司式することを考えれば、合点が行くかと思います(CCE.1348)。ミサの中、奉納の終わりに祈る「司祭の手をとおしてお捧げするこのいけにえ」という祈りの言葉はそれを的確に表しています。このミサの中でキリストに成り代わって行動する権能こそ、最後の晩餐で「わたしの記念としてこれを行え」との言葉で、イエスが使徒たちに与えられた権能なのです。実はミサはキリストが、ご自身を、御父にささげられるのです。だから、ミサは十字架の犠牲の再現と言うのです。
ただし、十字架とミサはまったく同じではありません。十字架ではイエスは血を流し得も言われぬ苦しみをなめられました。他方、ミサではもう血は流れません。しかし、上述した三つの要素が同じなので、ミサは十字架の再現なのです。すなわち、ミサの中で、十字架の犠牲が現在化されているのです。司祭はミサ中によく両手を広げて祈ります。この姿は十字架上のイエスの姿を現しています。
ミサがいけにえ(犠牲)だと言うと、いけにえという言葉に抵抗を感じる人もあります。何か血なまぐさい恐ろしいものだ、と。しかし、イエス様の十字架刑は実際に目をおおいたくなるような残酷なものでした。そのご死去は人類の罪を償うためのいけにえだったのです。
ミサが十字架の犠牲の再現であるという教えに強く反対するのがいます。その人々の主張は、もしミサが十字架の再現ならば、十字架の犠牲が人類救済のためには不十分だったというのに等しいではないか、また聖書には「キリストもまた一度だけ、多くの人々の罪を負うために、ご自分をささげられた」(ヘブライ 9,28)とあるではないか、というものです。この論理に対するカトリック教会の反論は、キリストが十字架上の死によって全人類の罪をあがなう功徳を得たことはまったくその通りだが、主はそれに満足されることなく、その功徳をますますふんだんに人類に分け与えるために、ミサを制定されたというものです。神の無限の愛の表れと言えるでしょう。
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③ ミサの価値。司祭と会衆のミサにおける役割
ーミサの本質が十字架の犠牲の再現であるということは、いくつかの実践的な結論を生みます。まず、ミサには無限の功徳があること。そしてその功徳はミサに参加する人数とは関係がないということです。そもそもミサは典礼行為の一つですが、典礼行為はキリストと全教会の行為なのですから、ミサはまさにキリストの行為であり、全教会の行為なのです。つまり一人の侍者しかいないミサでも全教会が参加しており、100万人が参加する教皇様のミサと、価値としては同じなのです。「いかなるミサも、つねに公的、社会的性格がある」(典礼憲章27。この言葉は、共同体的祭儀を個人的な祭儀執行にできるかぎり優先させるべきと言った後の但し書きです)。
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10)司祭と信者とはミサ聖祭においてどういう役割を持っていますか。
ーミサ聖祭において司祭は、キリストの司祭権にあずかり、キリストと一致して犠牲の奉献を行う役割を持っています。また信者は、司祭を総代として神秘体の一致のうちでそれを司祭とともにささげる役割を持っています。
ミサをささげるのがキリストで、司祭がキリストに成り代わってささげると言うことは、ミサにおいて司式司祭と参加する信徒の役割が異なることを意味します。「司祭の手を通してお捧げするこのいけにえをお受けください」とのミサの中で祈りははっきりとそれを示しています。信徒は、この祭儀に司祭の意向と一致して、それぞれが割り当てられた役割をしっかり果たしながら参加するのです。第二バチカン公会議は、ミサへの信徒の行動的参加を促し「会衆の応唱、答唱、詩編唱和、交唱、聖歌、さらに種々の行為すなわち動作と姿勢にも配慮しなければならない」とし、同時に「しかるべきときには、聖なる沈黙を守らなければならない」と定めています(典礼憲章30)。そのためミサの典礼の意味を学ぶことが大いに勧められます。CCEには「エウカリスチアの典礼祭儀」という項でミサの各部分の説明があります(1345~55)。式次第に示される動作や言葉は、どれも深い意味があり、それを少しでも知ればより積極的な参加ができるでしょう。(CCE.1140~42、1348、1548参照。さらに詳しく知りたい方は、前掲のカンタラメッサ『ミサと聖体』聖母文庫をお読みください)。
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11)ミサ聖祭を捧げる目的は何ですか。
―ミサ聖祭を捧げる目的は、(1)神を礼拝し、(2)そのご恩、特に救世のご恩に感謝し、(3)人々の日々の罪をあがない、(4)神の恵みと助けとを祈願することです。
上述したように、この四つの目的は人間が創造主に対して行うべきことで、あらゆる民族が自己の宗教行事において行っていることです。その中で唯一本当に神をお喜ばせする事ができるのは、ミサだけです。また、信者は自分の生活を通じてこの四つの目的を果たすことができます。仕事や苦しみだけでなく、楽しいことも休息も、何でも神にお捧げする事によって、礼拝と感謝と贖いと祈願ができるのです。それはいわばミサを一日中続けるということで、す。グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿によれば、「聖なる人とは、ミサを一日中生き続ける人です」(『希望の道』350)。ただし、価値としてはごミサには及ぶべくもありません。なぜならごミサはキリストの行為だからです。
なお、ミサは神にのみ捧げられるもので、聖母マリアを始め聖人のミサというのは、神に捧げられるですが、それによってその聖人に与えられた神の恵みを称え、感謝するのです。
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12)ミサ聖祭にはどのような効果がありますか。
―ミサ聖祭には、神に無限の光栄を帰し、信者にはもとより、すべての人に豊かな神の恵みを与え、罪人には神の御あわれみを、煉獄の霊魂には償いのゆるしをもたらすという効果があります。(CCE.1391~98参照)。
ミサはキリストの十字架の再現ですから、無限の効果があります。ミサの恵みはまず司式司祭とミサに参加する信者に与えられます。次にそのミサの中で司祭と出席者が祈る意向のために。ミサではまず全教会のために祈りが捧げられます。しかし、それだけでなく、教会の外にあるすべての人々のためにも祈ります。それは十字架の犠牲が全人類のためだったからです。ミサの中にちりばめられている祈りがそれぞれ何のためかと考えながら、ミサの祈りを注意して読んでみてください。第三奉献文には「わたしたちの罪のゆるしとなるこのいけにえが、全世界の平和と救いのためになりますように」と、第四奉献文では死者のための祈りの中で「あなただけがその信仰を知っておられるすべての死者を心に留めてください」と祈ります。この他、素晴らしい文言が各所で見つかるでしょう。
しかし、当然のことながら、恵みの効果は受ける人の心構えによって異なります。こんこんと湧き出る泉があるとしましょう。そこで汲める水の量は、持って行く容器の大きさによります。小さなコップ一つしか持っていなければ、300㏄の水しか汲めませんが、灯油用のポリ容器二つを持って行けば、36㍑の水が汲めるのと同じです。ではどういう心構えをもてばいいのでしょうか。
ー 目次へー
13)信者がミサ聖祭にあずかるにはどのような心構えを持たなければなりませんか。
―信者は、ミサ聖祭にあずかるときに、イエス・キリストの十字架の犠牲を思い、司祭とともにこれを捧げ、同時に自分のすべてをもささげるように心がけなければなりません。
前述したように、ミサの中では司祭と信者はそれぞれ一定の動作、祈りの唱和、そして聖なる沈黙が定められています。これらの様々な行動の底を流れる精神は、ミサではカルワリオの十字架の側にいるという信仰です。
ミサではキリストがご自身を御父にお捧げになります。ミサに参加する我々も、自分のすべてを神に捧げる意識を持つことが大切です。第三奉献文では「聖霊によってわたしたちがあなたに捧げられた永遠の供え物となり」とはっきり願います。私たちを神におささげしないなら、本当に神を礼拝することはできません。イエスが言われたように礼拝は「真理と霊によって」するべきですから。
教会の生活の中で、ミサは「いのちの源泉、頂点である」と言われます(注1)。その中には、非常事態の中で勇気と神への愛をもって挙行されるミサがあります。教会の歴史の中で数え切れない感動的なミサがあったはずです。日本語の文献で読めるものとしては、戦後満州でソ連によって国際法に反して拉致されカザフスタンの農場で強制労働を課された名古屋教区の逢坂神父様が、昭和23年のクリスマスに農場の倉庫で2人のリトアニア人の司祭とともに10人前後のカトリックと正教の信者のために捧げたミサの話し(志村辰也、『教会秘話―太平洋戦争をめぐって』聖母文庫119~122)。昭和19年東京の埋め立て地にあった捕虜収容所にいた650人ほどの米豪英蘭の人たちの要求を受けて、東京教区の下山正義神父様が立てたクリスマスのミサ(下山正義、『神のあわれみは永遠』聖母文庫211~228頁)の話し。さらには、1975年から13年間ベトナム共産党政権によって牢獄生活を強いられたグェン・ヴァン・チャウ枢機卿が牢獄の中で、「手のひらにとった三滴のぶどう酒と一滴の水でミサを捧げた」話し(『フランシスコ・グェン・ヴァン・トゥアン、『5つのパンと2匹の魚』68頁』。(注2)などがあります。この他、無数の英雄的なミサがあったはずで、現在でも迫害下の地域で続けられていることでしょう。
CCE.146。また第二バチカン公会議の『典礼憲章』10)同枢機卿の伝記『希望の奇跡』ドン・ボスコ社。また獄中で信徒のために書かれた霊的考察である『希望の道』ドン・ボスコ社、そして『5つのパンと2ひきの魚』女子パウロ会、は是非読んで頂きたい良書です)。
(3)聖体拝領
14)聖体拝領とは何ですか。
―聖体拝領とは、イエス・キリストの御からだと御血とを超自然の生命を養う食物として受けることです。
「ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主のからだと血にあずかる聖なる会食でもあります」(CCE.1382)。イエスは天から下ってきたパンの説教において「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちにいのちはない」(ヨハネ 6,53)という謎のような言葉を残されましたが、その意味は、最後の晩餐で「これを取って食べなさい」と言われたとき明らかになりました。主は私たちがご自分を「食べて」霊的に養われることを望まれるのです。これが愛でなくて何でしょうか。
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15)いつ聖体拝領をしなければなりませんか。
―物事をわきまえる年齢(満7才くらい)に達したすべての信者は、すくなくとも毎年一度復活祭のことに聖体を受けなければなりません。また生命の危うい時にも必ず聖体を拝領するようにしなければなりません。
なお、教会はすべての信者がたびたびできれば毎日、この霊的生命の食物を受けることを勧めています。
御聖体はイエス・キリストそのものです。ならば、聖体拝領をする際には最上の準備をしてお迎えしなければなりません。と言われると、反論するには勇気がいりますね。反論すれば、「おまえは神を敬っていない」と叱られる恐れがありますから。この種の厳しい主義を繰り広げていたのがヤンセン主義という異端で、この影響は教会に広がっていました。その一つの結果が、子どもの初聖体をかなり遅らせていたことです。つまり、彼らは子どもがキリスト教の教理を完全に知るに至るまで聖体を拝領をさせてはならないと言っていました。
この厳格主義の弊害を除去したのが教皇聖ピオ10世でした。教皇は「初聖体の準備として要求される宗教の知識は・・聖体のパンと普通のパンとの区別ができること」(DS.3532)という極めて簡単でわかりやすい基準をしめされたのです。教皇が子どもに早く聖体拝領させようと望まれたわけは、神様の望みがそうだと確信されていたからでしょう。イエスは私たちにご自分をお与えになりたいのです。ましてや、格別の愛を持っておられる子どもたちに対しては。イエスは「この方をだれと心得ておるか。神の子、イエス・キリストなるぞ。頭が高い」と紹介されて、平伏している人間を眺めたいと思われるのではなく、親しく接したいと望んでおられるのです。「わたしは戸口に立ってたたいている。もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くならば、私は彼のもとに入ってともに食事をし、その人もまたわたしとともに食事をする」(黙示録 3,20)と言われるのです。
それゆえ、教会は「毎日でも聖体を拝領するよう信者に強く勧めています」(CCE.1389)。
とはいえ、もちろん、できるだけのよい準備をするべきです。このことについては17で見ましょう。
ー 目次へー
16)聖体拝領の効果は何ですか。
―聖体拝領の効果は、(1)成聖の恩恵を増して主イエス・キリストとの一致を強め、(2)助力の恩恵を与えて徳に進ませ、私欲を弱め、(3)小罪をゆるし、大罪を防ぎ、罪の有限の罰をもゆるし、(4)さらに死すべきからだに復活と永遠の光栄の保証とを与えることです。また聖体拝領によって神秘体の内的一致もますます強められます。
ご聖体はイエス・キリストそのものですから、それを頂くことは無限の恵みを生じます。ちょうど食事が体を病気に対する抵抗力を強め、筋肉や骨を大きくするように、聖体は霊魂を罪から防ぎ、誘惑や怠け心に勝つように強めます。それは永遠のいのちの保証となることです。
CCE(1391~1401参照)には、この4つの効果の他に、聖体拝領によって、キリストとキリスト信者の絆とさらに信者同士の絆が強められ、その結果教会を強めることも教えています。教皇聖ヨハネ・パウロ2世が2003年に出された回勅に『教会にいのちを与える聖体』という名前を与えられたのはこの点を強調されたかったからでしょう。またキリストとより緊密に結ばれる結果、主の貧しい人々に対する愛を自分のものにするはずです。それで聖体は「貧しい人々との連帯を強めさせてくれます」とあります。
「そんなことを言われても、私は聖体拝領をしても何も感じない」と言われる方も少なくないのではないでしょうか。その一つの理由は、恩恵は普通は感じるものではないということです。『道』に次のような話があります。「『ずいぶん長い間、毎日、聖体拝領をしてきました。他の人なら、聖人になっていただろうに、私はいつまでたっても同じです』と、あなたは言う。・・・私は答えた。『日々の聖体拝領を続けなさい。そして、拝領していなかったら、どうなっていたかを考えてみなさい』」(534)。ご飯を食べたら、疲れた体が元気になるのを感じますが、聖体が同じ効果を霊魂に与えてもそれは普通は感じないのです。でも、長い目で見たら、その効果はわかります。
もう一つの考えられる理由は、拝領する私たちの心構えの悪さ、かもしれません。5)で見たように、霊魂が汚いと、恩恵が中に入りにくくなるのです。長崎のある主任神父様がユーモアを交えたわかりやすいたとえを教えてくれます。「(水虫が冬になっても治まらないので)薬を贈ってくれた友人の薬剤師に、『あの薬は利かんたいね』と抗議したら、『神父さん、まず風呂に入らんですか。汚れた足にはいくら薬をつけても利かんですばい』と反論された。『神の恩恵は、まずゆるしの秘跡で霊魂の汚れを落としてからでないと効果はない』と皆さんには教えておきながら・・」(川添猛、『露に潤うた男たち』88頁)。
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17)聖体を拝領するにはどのような準備が必要ですか。
―聖体を拝領するには、成聖の恩恵を持ち、教会が定めた断食の規定を守ることが必要です。
御聖体がキリストご自身であるのですから、それ相当の敬意と愛情と感謝をもって聖体拝領に赴くことが必要です。教会は霊魂と体の二面に関する掟を定めています。
霊魂に関する掟とは「成聖の恩恵を持っていること」です。罪に汚れていない綺麗な部屋(霊魂)に主をお迎えしようとするのは当然でしょう。それゆえ、大罪をもっているのではという意識があれば、まずゆるしの秘跡を受けてから御聖体を拝領しなければなりません。また聖体を拝領したいという望みを強くすることも勧められます。
体に関する掟とは、聖体拝領の一時間まえから水以外のものをおなかに入れないという簡単な断食です。ただし病人と病人の介護に当たるにはそれを守る義務はありません(CCE.1387)。
CCEには「尊敬を表す態度や身なりをして、私たちの賓客になられるキリストをお迎えする厳粛さと喜びを表現しなければなりません」とあります(1387)。イエス様はある貴人から食事に招待されたとき、その招待者が客に示すべき礼儀を欠いたことをやんわりと注意されました(ルカ 7,36~50)。それゆえ、ミサに出席するときの服装も一考に値します。ミサは大切な儀式ですから、カジュアルな服装は相応しくないと言えるでしょう。結婚式や葬式に参加するとき、それなりの服を着ていきませんか。それは、関係者の喜びや悲しみに同伴しようとする心配りでしょう。なるほど、結婚式や葬式はそう頻繁にあるものではないのに対して、ミサは毎週、あるいは毎日です。しかし、ミサが神への礼拝であることを考えると、その感謝と喜びを表すために少し上等の服を羽織るべきではないでしょうか。
また長崎の神父様のお話です。「クリスマスのミサにあずかるときは、内面ばかりでなく外面も整えて頂きたい。タンスの中の一番よい物を付けていただきたいのである。教会の前で、小店をしていた若い奥さんの言ったことを思い出す。『神父さん、カトリック信者はいいですね。日曜日や祝日ごとに着物が着れますから。私たちは持っているばかりで、着る機会がめったにないんですよ。日曜日やお祝い日が来るとうれしいんです。ミサ帰りの信者さんが、おごちそうを沢山買ってくれるのですよ』。外面を整えて教会に来るのも、帰りにおごちそうを買うのも、一つの『あかし』であることがお解りであろうか」(『露に潤うた男たち』126頁)。
クリスマスには最上等の晴れ着を、普段のミサには単なる晴れ着を、はどうでしょうか。また聖体拝領の仕方ですが、聖体を司祭から舌で受けるのが原則です。しかし、各国の司教協議会が許可をすれば、手で受けることもできます。その際は左の手のひらを右の手のひらの上にして司祭から聖体を受け取り、次の人に場を開けるために少し左右に退き、その場で受け取った聖体を右の手でいただくようにします(日本カトリック司教協議会『日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針』n.11)。
18)聖体拝領の後には、何をしなければなりませんか。
―聖体拝領の後には、礼拝と感謝の祈りをささげ、必要な恵みをこい願わなければなりません。
聖体拝領で私たちはパンの形のイエスを食べます。そのパンは胃に入り、10分くらいで消化されるそうです。この10分は主が私たちの中に現実に実体的に留まってくれる時間です。それなら、礼拝、感謝、祈願、赦しを願うことに集中するのが当然ではないでしょうか。祈願なら、まさに直訴できると考えてもいいでしょう。教会と教皇のため、家族のため、友人のため、病気の人のため、困っている人のため、世界の平和のためなどなど頼むべき事は山ほどあります。一刻も早く教会を出て、したいことをしようと考えるのは損ではないでしょうか。たしかに心を集中することは難しいですが、「静かな所に留まり、あなたの神を味わいなさい。それは全世界も奪うことができない御方をあなたは持っているからです」(『キリストにならいて』4巻、12、4)。『カトリック祈祷書。祈りの友』(サンパウロ)には、「聖体拝領の感謝の祈り」が載っています。
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(4)聖堂に安置された聖体
19)聖体が聖櫃(せいひつ)のうちに安置されるのはなぜですか。
―聖体が聖櫃のうちに安置されるのは(1)ミサ聖祭以外にも信者が聖体を拝領することができるため、(2)信者がいつも聖体を礼拝し、イエス・キリストの現存による恵みを得ることができるためです。
聖体におけるキリストの現存は、パンとぶどう酒の外観が残る限り続きます。ぶどう酒の場合、ほっておくとすぐにぶどう酒は酢に変わります。酢になれば、もうその中にはキリストはおられません。これに対しパンはかなり長持ちします。そこで、聖体拝領後に残った聖体のパンを聖櫃に安置するのです。
(1)聖体拝領はミサ以外でもできます。そのための式次第があります。しかし、その日にすでに聖体拝領した人は、ミサの中でなければ再度聖体拝領することは認められていません(『教会法典』917条)。例えば朝にミサに参加し聖地拝領した人が、同じ日のお昼頃に葬儀のミサに参加することがあれば、その中で聖体拝領してもかまわないということです。でも聖体が上で見たように素晴らしいものならば、一日に何度でも拝領するのはよいことではないでしょうか、と言う人もあるかも知れません。しかし、私たちは一日の中で仕事や家族生活などするべき事が沢山あります。それらの義務を果たすことに邪魔になるほどの信心は、良くないのです。一日に一度ミサに預かれば十分で、その後しっかり市民として、一家の夫、妻としての義務をしっかり果たすことを神はお望みなのです。
また司祭は、病院や自宅で寝ている病人に聖体を持って行きます。そのためにも教会の聖櫃に聖体が安置されることが必要になります。
(2)イエスは復活の後、弟子たちに「私はいつもあなたたちとともにいる」と約束されました。この約束は、いろいろな仕方で実行されますが、第一に聖体にお残りになることで果たされます。聖体を安置する場所が聖櫃です。聖櫃は「教会堂、又は礼拝堂内の重要な場所に設置し、そこは見通しがきき、美しく飾られ、祈りにふさわしい場所でなければならない」と定められています(『教会法典』938条)。聖櫃の近くにはランプがあります。このランプはそれを灯すことによって、聖櫃の中にご聖体があることを示します(『教会法』940条)。
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20)信者は聖堂に安置された聖体に対してどうしなければなりませんか。
―信者は、聖堂に安置された聖体をたびたび訪問し、聖体にましますイエス・キリストを礼拝し、信頼の心をもって主に祈るように努めなければなりません。
聖体訪問は素晴らしい信心です。教会の近くを通れば、できれば聖堂に入り、せめてご聖櫃に向かってお辞儀でもしてください。聖ホセマリア・エスクリバーが語る逸話です。師がまだ若いとき、早朝からある教会の告白場に座っていた。そして毎朝、告白を聞いているときか、または聖務日祷を読んでいる最中に、教会の扉が大きな音を立てて開かれたかと思うと、金属製の音がして、また扉がバタンと閉められるのを聞いた。その様子は告解場からは見えなかったので、一体何だろうと知りたくなって、ある日入口のところに立った。扉が音を立てて開かれると、師の目の前に配達する牛乳の缶の袋を背負った牛乳配達屋の顔が現れた。何をしているのか尋ねてみた。―神父様、あっしは毎朝ここに来て、ドアを開き、・・主に挨拶するんです。「イエス様、牛乳配達のホアンです」と。神父は雷に打たれたように感じ、その日一日中ホアンの射祷を繰り返して過ごした。 ―主よ、牛乳配達のホアンのように御身を愛することができない、不幸な人間がここにいます(注1)。後に師は牛乳配達のホアンの話を作りました。つまりホアンが死んだとき、審判をするイエスから「君はホアンじゃないか。毎日挨拶に来てくれて嬉しかった。こちらに来てください」と天国に迎え入れられるという話しです。
聖エディット・シュタイン(1891~1942)は、ユダヤ教徒から無神論者、そしてキリスト教徒、カルメル会修道女になり、最後には殉教者となった聖人ですが、キリスト教に惹かれ始めていたとき、カトリックとプロテスタントのどちらを選ぶべきか迷っていました。しかし、ある日、「私たちは2,3分の間、聖堂の中に入りました。私たちが畏敬の念に満たされて沈黙してそこに留まっている間に、一人の婦人が買い物かごをさげて入ってきて、短い祈りを捧げるためにベンチに跪きました。それは私にとっては思いも寄らないことでした。私がかつて訪れたシナゴーグやプロテスタントの教会では、人々が教会の中に入るのは、礼拝のためだけでした。しかしここでは、日々の仕事の合間に、ちょうど親しい人と対話するかのように、人気のない教会の中に入ってくる人がいました。このことを私は決して忘れることができません」と言っています(2)。
「私は好んで聖櫃を〈愛の牢獄〉と呼ぶ。20世紀の昔から主はそこにおられる。私のため、すべての人のために、自ら進んで籠もってくださったのである」(聖ホセマリア・エスクリバー『鍛』827)。イエス様は私たちに会いたいと思って聖櫃の中に入ってくださいました。もし逆に私たちが聖櫃にいたとして、だれもたずねれくれなかったら、さぞかし寂しい思いをするでしょう。
教会は、この他、聖体を賛美するために、聖体賛美式や聖体行列なども行います。13世紀には、ご聖体の祝日が設定されました。聖体の制定は聖木曜日に祝われますが、聖木曜日のミサだけでは十分おちついて聖体を賛美できないので、別に聖体の祝日があるのは素晴らしいこととは思いませんか。そのミサの祈りは、教皇の依頼を受けて聖トマス・アクイナスが作ったもので、深遠な教義と深い信心がミックスした素晴らしい祈りです。
これと似た話しが、グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿が教えてくれるジムじいさんの話しです。『5つのパンと2匹の魚』53~55頁)。
「ヴァルトラウト・ヘルプシュトリットによる「エディット・シュタインの歩んだ道」、エディット・シュタイン『現象学からスコラ学へ』九州大学出版275頁」
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第5章:いやしの秘跡
(1)ゆるしの秘跡
1)この秘跡は何と呼ばれるか。
ーこの秘跡には様々な名前があります。回心の秘跡、悔い改めの秘跡、告白の秘跡、告解の秘跡、ゆるしの秘跡、和解の秘跡などです。
2)洗礼の後に、なぜ和解の秘跡があるのか。
『カトリック教会のカテキズム』は、「ゆるしの秘跡」の説明に入る前に、かなりの紙幅を割いて「回心」(悔い改め)について話します。洗礼における回心を第一の回心とするなら、その後の回心は第二の回心と呼ばれます。この回心は私たち人間にとって一生の間続けるべき仕事です。そして自分の罪を認め赦しを願うこと(痛悔、回心)は人間ができる行為の中で最も神様に喜ばれるものと言えるのです。聖書は「悔いる霊こそ、この上ない犠牲。神よ、あなたはへりくだった悔いる心をさげすまれません」(詩編 51-19)、「一人の罪人が悔い改めれば、神の使いたちの間には喜びがある」(ルカ 15-10)と教えています。洗礼者ヨハネも主イエスも、宣教を「悔い改めよ」という言葉で始めたことも思い出しましょう。
さて、上述したように洗礼の秘跡では原罪と自罪また償いすべてが赦されますが、原罪の傷跡(欲情。罪への傾きをもった傷ついた本性)は消されません。聖書はそのことをよく示しています。例えば、「私たちはこのいのちを土の器に納めている」(二コリント 4-7)と聖パウロは言い、使徒聖ヨハネは「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはありません」とまで言っています(一ヨハネ 1,8)。
ここで一つの疑問が生じます。つまり、信者の中にも、「私は告白する罪などありません」と言う人がいるかと思うと、聖人伝を読むと偉大な聖人たちも自ら大きな罪人であるという意識を持っていることです。これはどう理解したらよいのでしょうか。聖人たちは偽りの謙遜で自分は罪人だと言っていたのでしょうか。それはあり得ません。聖人は裏表のない正直な人ですから。
昔私の家の近くにとてもバイクが好きな若者がいました。彼は赤色の立派な大型バイクを持っていてしょっちゅう、それを磨いていました。他方、私は中古のカブに乗って通勤していましたが、6年間にバイクを洗ったのは一回か二回でした。あの若者は自分のバイクにほんの小さな傷ができたらすぐに気がついたでしょう。それに引き換え私の場合、カブが壊れるかしなければ少々の傷など気がつかなかったでしょう。これはどういうことでしょうか。それは愛の問題なのです。人は愛する物に関しては、とても小さなことまで気になります。聖人たちは神を深く愛しているので、ほんの少しでも神を悲しませたと思うと心が痛むのです。それに反して、神をあまり愛さない人は、神への失礼なこともあまり気にならないので、それを見逃しても平気というわけです。
ですので、もっと神様を愛する、あるいは少なくても神様のことを考えることによって、自分の罪を認め、赦しを願いましょう。繰り返しますが、それは神が最も喜んでくださることのようです。
「でも、自分が罪人だと考えると、何か暗い気持ちになるじゃないですか」とか「子どもにゆるしの秘跡をさせると、子どもがトラウマになるのじゃないですか」とか言われることもあります。まずここで思い出すべきは「人はだれでも罪人だ」という事実です。それを認めなければ、誤った自己認識に立って生きることになります。勉強でも習い事でもなんでも、学ぶ側は自分がその事柄について無知であること、まだ上手にできないことを認めなければ、先生の指導を受けつけず授業やレッスンは意味がなくあるでしょう。
まず「自分は知らないので、知っている先生から学びたい」という心構えが必要です。あるいは病気の人が自分が病気であることを認めなければ、まず医者に診てもらおうとはしないでしょう。万一受診しても医者に自分の体調について謙虚に話さないなら医者は彼を治すことができません。それと同じように、神の御前で私たちは赦しを乞う必要がある罪人であることを認めねばなりません。イエス様の次の言葉を思い出しましょう。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ 9-13)。そして放蕩息子のたとえで見事に教えているように、罪を認め赦しを願う人には、喜んで赦そうと待ち構えておられるのです。
また子供が告解をするように言われると、トラウマになるという説ですが、普通は逆です。子供はゆるしの秘跡を受けるととても喜びます。たしかに、それを聞く聴罪司祭が上手に導いてあげることが必要でしょう。でも、CCEも言うように、「罪の告白は、純粋に人間的側面から考えても、わたしたちに開放感を与え」ることは本当です(1455)。信者ではない人から、「カトリックには懺悔(ゆるしの秘跡)があるからいいですね」と言われたこともあります。
日本のある新興宗教が、集団での説法だけでは効果があがらないことに気づき、カトリックの告解を真似して一対一の対話を取り入れたと聞いたことがあります。ちょうどカトリックでは上のような批判が盛んでゆるしの秘跡が激減していたころでした。
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3)ゆるしの秘跡とは何ですか。
ーゆるしの秘跡とは、洗礼以後に犯した罪を教会の司祭を通して赦す秘跡です。
ここで問題になるのは「司祭を通して罪を赦す」ということです。「罪は神様に対して犯すのだから、神様に直接あやまったらそれでいいんじゃないですか」という言い分を聞かれたことはありませんか。確かにその通りで、罪を赦すことのできるのは神だけです。
それを十分にわきまえた上で思い出すべきは、罪を赦す権能を持っておられる神が、弟子たち人間(あとで見るように12使徒)にこの権能を与えたということです。つまり、神は人の罪を赦すために、ご自分の聖職者を道具にしようと、ゆるしの秘跡をお定めになったのです。それゆえ、本当に自分の罪を悔いて神様に赦しを願いたいなら、この神の望みに従って12使徒の後継者に罪を赦してもらうようすべきです。例えば、Aさんにひどい害を与えた後で、Aさんに赦してほしいと思うなら、Aさんがこうして欲しいと言われたことは何でもするでしょう。神は、「罪を赦されたければ、私の司祭に罪を告白して欲しい」と言われているのです。だから罪を犯したことを心から悔いるなら、ゆるしの秘跡に赴くはずです。
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4)イエス・キリストはどのようにしてゆるしの秘跡をお定めになりましたか。
ーイエス・キリストは復活の後、使徒たちに現れて次の言葉をもってゆるしの秘跡をお定めになりました。「聖霊を受けなさい。だれの罪であれ、あなたたちが赦せば、その罪は赦され、赦さないでおくなら、赦されないままである」(ヨハネ 20-23)。このみ言葉によって使徒たちはキリストに代わって信者の罪を赦す権能を授かりました。
これは復活の日の夜に復活したイエス様が11人の使徒たちに出現されたときの言葉です。それ以前に、イエスはペトロに「あなたが地上でつなぐものは、天においても繋がれ、あなたが地上で解くものは天においても解かれる」(マタイ 16-19)と、他の使徒たちにも「あなたたちが地上でつなぐものは、すべての天においてもつながれ、あなたたちが地上で解くものは、すべて天においても解かれる」(マタイ 18-18)というふうに罪を赦す権能をペトロと他の使徒たちに与えておられました。その権能を復活の日曜日の晩、上記の言葉ではっきりと宣言されたのです。ここで興味深いことは、このときの前にイエスが使徒たちと最後に会ったのは、木曜日の夜に主がゲッセマニの園で捕縛されたときで、そのとき彼らは主を捨てて逃げたのでした。イエスのご受難に際して、ヨハネを除いてみなが主を見捨てたのです。これを考えると、復活の晩にイエスが彼らにお現れになったとき、「以前あなたたちに与えた使命や権能は、もう白紙に戻す」と言われても当然ではないでしょうか。しかし、イエスは何事もなかったかのように、彼ら以前の信頼と友情を示されたのです。最初の言葉は「この裏切り者めが」ではなく、「あなたたちに平安」でした。これは神の無限の憐れみを示します。神が人をお赦しになるということは、過去のことすべてを水に流され忘れられるのです。あなたは、何か悪いことを自分にした人を赦すのが難しいと感じることはありませんか。また一度赦したと思っていたのに、また思い出しては腹を立てたという経験はありませんか。それを考えると、すべてを完全にお赦しになることができるということは、神の全能の表れだと言えるでしょう。
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5)罪を赦す権能を使徒たちから受け継ぐのはだれですか。
ー罪を赦す権能を使徒たちから受け継ぐのは、司教と司祭です。この権能によって司教、司祭は信者の罪の告白を聞いてから「私は、父と子と聖霊とのみ名によって、あなたの罪を赦します」との言葉で罪を赦します。
洗礼を受けることによって人は「祭司」になります。祭司とはすでに言ったように、神と人の仲介者となる人です。それゆえ、主は教会をお建てになったとき、教会が罪の赦しの道具となるようにお望みになりました。しかし実際に罪を赦す権能は使徒たちだけにお与えになり、使徒たちはこの権能を叙階の秘跡によって司教と司祭に受け継がせたのです。
また、罪を赦すとは、神だけでなく教会と和解することを意味します。イエスがペトロと使徒たちにお与えになった「解く権能とつなぐ権能」は教会共同体との交わりを云々することです。司教は部分教会の規律の統制者ですから、司祭はどこでも自由に告白を聴くことができるのではなく、司教の許可を得てゆるしの秘跡を執行しなければなりません(『教会法典』969条。例外は死の危険にある人に対して。『教会法典』976条)。
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6)ゆるしの秘跡の効果は何ですか。
ーゆるしの秘跡の効果は(1)罪と罪の永遠の罰を赦し、(2)成聖の恩恵を回復し、または増加し、(3)罪を避け徳に進む助力の恩恵を与え、(4)大罪によって失った超自然のいさおし(功徳)を取り戻し、(5)教会と和解することです。
ゆるしの秘跡はどんな罪も赦します。ただし、いくらかの極めて重い罪は、普通の司祭には赦すことができないものもあります(死の危険の場合を除いて)。
大罪を犯すと、無限の罰(すなわち、永遠の地獄)に値するものとなりますが、ゆるしの秘跡はその大罪とその結果である無限の罰を赦します。しかし、完全な痛悔(後で説明します)がなければ罰は残ります(これを有限の罰といいます)。この点で洗礼と異なります。洗礼では罪だけでなく罰もすべて赦されますから。そのわけは、洗礼によって神の子となったキリスト信者が犯す罪は、信者ではないときに犯す罪と比べて、ずっと重いからです。聖アウグスティヌスの言葉を借りるなら、「洗礼後においては罪に汚れた場合、責任はそれ以前よりも重大で、いっそう危険なものになる」のです(『告白』第一巻、11)。
「教会はどんな罪でも赦す」と言われるが、キリストの言葉に「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでもゆるされるが、“霊”に対する冒涜はゆるされない」(マタイ 12,13)とあるのはどういうことでしょうか。これは、悪魔を追い出すというイエスの奇跡を前にして、人々は驚いたが、ファリサイ派の人は「あれは悪魔の頭によって悪魔を追い出しているのだ」とケチをつけたときのことです。聖霊によって悪魔を追い出しているのに、その霊を悪魔呼ばわりするとは、それは冒涜の罪だと主は言われるわけです。このように明らかに良いことを前にしても悪く解釈するという悪意の持ち主は、痛悔することが難しい、それゆえ「この罪は赦されないというのです(CCE. 1864を参照)。
大罪を犯すと、成聖の恩恵を失います。天国への切符を失うという恐ろしい状態になります。罪が赦され成聖の恩恵を回復されることを義化と言います。義化はまず洗礼によって、その後はゆるしの秘跡によって行われます。聖アウグスティヌスは、義化は「天地の創造よりも偉大な業」と考えました。「天地は過ぎ去っても、選ばれた人々の救いと義化は永続するから」です(CCE. 1994)。私達がゆるしの秘跡で罪を赦されるとき、これ以上ない奇跡が起こっているわけです。
後で見るように、完全な痛悔をすれば、大罪も赦されるのですが、完全な痛悔をしたかどうかは誰も確信できません。それに対しゆるしの秘跡の場合は確実に許されたと確信できます。
ゆるしの秘跡の効果は罪を赦すことだけではなく、信仰生活に必要な努力を助ける助力の恩恵を与えます。。また普通この秘跡の中で霊的な指導を受けますが、これも霊的な進歩に大いに役立ちます。定期的に医者に診察に行くなら、病気を直してもらうだけでなく、健康に役立つ薬や指導を受けるのに似て、定期的にゆるしの秘跡に与るなら霊魂の健康を保持しやすくなります。
成聖の恩恵の状態にある人がよい業をするなら、功徳(報いを受けるに値するもの)を積むことになります。上述したように、人間のするよい業は神のみ前では本当は価値がないのですが、人が神の子になると、神がそれを喜んで受け入れてくださるということです。ちょうど、子供が親のお手伝いをしたら、実際はお金を払う価値がない仕事なのに、小遣いをもらえるようなものです。こうして人はよい業をするにつれて功徳を積んでいくのですが、せっかく積んだ功徳も大罪を犯すなら、すべて失ってしまうのです。神の愛子でなくなるからです。しかし、ゆるしの秘跡で大罪を赦されると、前に持っていた功徳を再び返してもらえるのです。つまり、またゼロから始めなくてもいいわけです。放蕩息子が帰ってきたとき、お父さんは「お前はまず下僕として働きなさい」と言わずに、立派な服と履物と指輪を着けさせました。これは罪を犯す前に持っていた息子としての尊厳を与えられたということです。これと同じように、大罪が許されたとき、以前の神の愛子の地位を回復するのです。神はなんと優しい方でしょう。
最後に、罪は神との交わりを傷つけるだけでなく、信者の間の交わりをも害します。それゆえ、罪を赦されるということは、共同体との和解をも意味します。「教会との和解は、神との和解と切り離すことができません」(CCE 1445)。
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7)ゆるしの秘跡を受けなければならないのは、だれですか。
ーゆるしの秘跡を必ず受けなければならないのは、洗礼以後に大罪を犯した信者です。(教会の第二の掟はこの義務を思い出させ、守らせるためです。)
前項で言いましたように、大罪の赦しはこの秘跡以外では受けられません。大罪の状態にあるとは、成聖の恩恵のない状態、すなわち神の愛子ではない状態、一言でいうと「神と和解しないままにある」ということです。ベネディクト16世は「神との和解が行われないままであることこそが、全人類史の本当の問題とある」と言われています(注1)。この言葉の意味は考えるに値することです。この和解を可能にするために、神が人となられて十字架上で亡くなられたのです。
神との和解は心に平和をもたらし、隣人との和解につながります。理由のなくイライラしているなら、頻繁な隣人との衝突などがあるなら、ゆるしの秘跡を受けることが必要なのかもしれません。地球上の大きな戦争も、突き詰めれば人間が神をないがしろにするところから生まれてくると言えます。
この重大性を理解した教会は、1215年の第四ラテラン公会議で、信者は「少なくとも年に一度、復活祭の前後に赦しの秘跡を受けること」と決めたのです。
(注1、『ナザレのイエス』II、97頁)
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8)小罪のゆるしを得るためにゆるしの秘跡は必要ですか。
ー小罪のゆるしを得るために、必ずしもゆるしの秘跡は必要ではありません。それは痛悔、他の秘跡、祈り、よい業によっても赦されるからです。しかし、小罪だけの場合にもゆるしの秘跡を受けるのはたいへん有益です。それはゆるしの秘跡によって罪が確実に赦されて、特別な恩恵が与えられるためです。なお教会はすべての信者に対し、ゆるし秘跡を決まった聴罪師のもとでたびたび受けることを勧めています。それはたびたびのゆるしの秘跡によって心が清められ、強められ、決まった聴罪師はその人をよく導くことができるからです。
現在は、健康がほとんど一番大切な価値になったかのような印象を受けます。「健康のためなら、死んでもいい」と言う冗談があるほどです。人々は大きな病気を避けるためだけでなく、体の小さな不具合にも気をつけています。以前、大罪は霊魂の死、小罪は風邪のようなものと言いました。体の健康にそれほど気をつけるなら、小罪に注意をはらい定期的に赦しを受けることは、神経質でもトラウマ(後遺症が残る精神的ショック)でもありません(但し小心という心の病もあります。この場合は、過度の良心の究明や頻繁な告解は控えることが勧められます)。
また定期的に医者に診てもらう場合、同じ医者を選ぶのが普通でしょう。なぜなら、もし毎回異なる医者に診てもらうなら、そのたびに自分の健康や病気に関する情報を最初から説明せねばなりません。かかりつけの医者なら、もう私のことは十分知っているので、ごく最近のことを話せば十分です。それと同じよう告白を同じ司祭に聞いてもらっているなら、毎回色々と説明することはありません。またこちらの霊魂の状態をよく知っているので、適切な助言を受けることもできます。罪の赦しに関しては、司祭が誰だろうが、同じく罪の赦しを受けることができますが、罪を告白した後に受ける助言に関しては、自分のことをよく知り適切に導いてくれる司祭を探すことはよいことです。
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(2)ゆるしの秘跡の部分
この秘跡の概要を知ったあとで、今度はどのようにしてこの秘跡にあずかるかを見ましょう。
9)ゆるしの秘跡を受けるには何が必要ですか。
ーゆるしの秘跡を受けるには、良心の究明、痛悔、告白、償いを果たす意志が必要です。
(3)究明
10)良心の究明とは何ですか。
ー良心の究明とは、前の告白後(最初の告解の場合は洗礼後)にどのような罪を犯したかを調べることです。
11)良心の究明はどのようにしますか。
ー良心の究明に際しては、まず聖霊の御助けを願い、前の告解(または洗礼)がいつであったかを思い出し、そのときから、思い、言葉、行い、怠りをもって犯した罪を調べます。大罪のあった場合には、その数、おもな事情についても調べねばなりません(注1)。
罪を調べるために神の十戒、教会の掟、各々の職務などについて吟味するのは適当な方法です。
スポーツ選手は自分のプレーをビデオにとって、試合や練習の後で見ることがよくあるそうです。それは、自分がプレーしているときは自分の姿は見ることができないので、外からそれを写して見ることで良くないところがわかるからです。完璧なプレーはないので、いかに一流の選手でも直すべき点があると自覚しているわけです。
それと同じように、キリストにつき従いたいと思うなら、自分の霊魂の姿を知る必要があります。良心究明はそのための手段です。ですから、これは必ずしもゆるしの秘跡の前だけにするのではなく、毎日の終わりにすることが勧められます。ではどのようにするのでしょうか。
決まったやり方はありません。人によって、あるいは状況によって、いろんなやり方があります。ここでは聖ホセマリアが勧めた方法を紹介します。一日の終わりに、静かな場所に腰を据えて自分が神のみ前にいると自覚する。聖霊に光を頼んで、まず朝から今までに何かよいことができたかを調べる。そしてできたことを神に感謝をする。次によくできなかったことがあるか調べる。それがあれば、神に赦しを願う。そして次の日に「ではこれを頑張ろう」と決心を立て、そうできるように神に助けを頼んで終わる、というやり方です。この中で一番大切なことは痛悔(よくなかったことについて神に赦しを願う)です。
他にもいろんなやり方があります。またいつも同じやり方でする必要はありません。自分のことを知るのは本当に難しいです。ですから、聖霊に光を願いましょう。
もし毎日良心の究明をする習慣があれば、ゆるしの秘跡の前にはそれほど時間をかける必要はありません。
(注1.ロヨラの聖イグナチオ、『霊操』24~43は良心の究明についての素晴らしい
指南書です)。
(4)痛 悔
12)痛悔とは何ですか。
ー痛悔とは、犯した罪を心から悔み、忌みきらい、今後決して犯すまいと決心することです。
痛悔は罪の赦しを受けるのに最も必要なものです。心から悔み、忌みきらうとは、うわべ、あるいは言葉だけではなく、犯した罪をまごころをもって悲しみ、どんな災いよりも罪を忌みきらうことです。
痛悔がなければ罪は赦されません。それは当然のことです。誰かがあなたの車を傷つけたとします。あなたは一旦腹を立てたけれど気持ちを落ち着けて「いいよ、赦してあげる」と言ったとしましょう。しかし、彼が「えっ、私は何も悪いことをしていないよ」と言ったら、赦してあげたいと思っても赦せないでしょう。赦しということは、悪いことをした側が自分の悪を認めることが必要なのです。
この「悪かった」と思うことには程度の差があります。痛悔には「完全な痛悔」と「不完全な痛悔」の二種類があります。
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13)完全な痛悔とは何ですか。
完全な痛悔とは、私たちの父である神、または救い主イエス・キリストを愛する心から、犯した罪を悔み、忌みきらうことです。
完全な痛悔があれば、洗礼またはゆるしの秘跡を受ける意志さえあれば、これを受ける前に、すべての罪とその永遠の罰が赦され、成聖の恩恵が与えられることです。しかし、このようにして洗礼後の罪を痛悔して許された場合でも、大罪を告白し、司祭を通してその赦しを受ける義務が残っています。
14)不完全な痛悔とは何ですか。
ー不完全な痛悔とは、罪の醜さを恥じたり、あるいは地獄、煉獄(れんごく)、この世における神の罰を恐れて犯した罪を悔み、忌みきらうことです。
不完全な痛悔をもって洗礼または告解の秘跡を受けるとき、これらの秘跡によって罪と永遠の罰が赦され、成聖の恩恵が与えられます。しかしこれらの秘跡を受けないとき、不完全な痛悔だけでは大罪の赦しを得ることはできません。
私達が誰かに悪いことをした場合、害を与えた相手の気持ちをわかって悔やむなら、相手に赦してもらうためには何でもするという気になるでしょう。それは本当に悪かったと悔やんでいる状態です。同じように罪を犯した場合、神様がいかに私の罪を悲しく思っておられるかを想像して胸を痛めるなら、あるいはこの罪のためにイエス様は十字架の苦しみをお受けになったことを思って痛悔するなら、完全な痛悔をしていると言えます。つまり、神への愛から生まれた痛悔なのです。これがあれば、神はその時点でその罪を赦されます。この痛悔を持つ人は、神の望みは何でも果たす気持ちがあるわけで、神が罪の赦しのためにゆるしの秘跡で罪を告白することをお望みなのですから、できるだけ早くこの秘跡に与ろうとするはずです。
他方、罪を犯したことで、「罰が怖い(ひょっとして地獄に落ちるかもしれない)」「恥ずかしい」などという気持ちをもって悔やむなら、神への愛より自分が被る不利益を考えているわけで不完全な痛悔と言えます。この場合は、ゆるしの秘跡を受けなければ罪は赦されません。ここで興味深いことは、ルターはこの不完全な痛悔は利己主義の結果で、痛悔とは認められないと言いました。しかし、カトリックは不完全でもゆるしの秘跡のためには役に立つとするのです。
15)ゆるしの秘跡を受けるときにどのような罪について痛悔を起こさなければ
なりませんか。
ーゆるしの秘跡を受けるときに、大罪のある場合には、すべての大罪について痛悔を起こさなければなりません。
小罪だけの場合には少なくともある罪について痛悔することが必要です。たとえば、三人の人に重症を負わせたとしたら、「二人の人については悪いと思うが、残りの一人については悪いと思わない」とか言うなら、ゆるしの秘跡は無効となります。
16)痛悔には何がともなわなければなりませんか。
ー痛悔には生活を改める決心が伴わなければなりません。
これも当然のことでしょう。悪いと思うなら、そのままでいいと考えるはずはないでしょう。とくに「罪の機会を避ける」という決心が大切です。例えば酒乱に陥る傾向があるなら、部屋に一升瓶を置いてはいけません。貞潔を守ろうとするなら、それを損なわせる読み物や娯楽や付き合いやネットを避けるべきでしょう。このように言うと「それは神経質すぎる。病的だ」とか言う人があります。コロナ禍の現今、「いつもマスクやうがいをしたり、黙って食べたり、声を出さないようにするなんて神経質過ぎる」と言ったら、周囲はどう反応するでしょうか。体の健康のためなら、病的なくらい神経質になっても非難されないなら、魂の健康を守るために機会を避けようとするのは当然ではないでしょうか。要するに何を一番大切と思っているのかが問題です。
ー目次へー
(5)告 白
17)告白とは何ですか。
ー告白とは、罪の赦しを受けるために、犯した罪を司祭に言い表すことです。
罪は神に対する侮辱で、罪を赦すことができるのは神だけです。しかし、その神は人間を通じて罪の赦しを与えることを望まれました。それゆえ、ときどき聞かれるセリフですが、「僕は直接神に罪を告白して赦してもらう」というのは論理が破綻しています。ただ、すでに見たように、罪を赦す権能は司教と司祭しか与えられていません。
でもどうして神は人間を通じて赦しを与えることを望まれたのでしょうか。それはなによりも、罪の赦しが確実に与えられたことがわかるためです。つまり罪を告白して、司祭の口から「私は父と子と聖霊のみ名によってあなたの罪を赦します」という言葉が発せられたなら、もう赦されたかどうか心配する必要はまったくないのです。また、罪を司祭に告白することは、謙遜のために役立つからかも知れません。自分の不完全な行為を人に言うのは屈辱的なことでしょう。罪は神の掟よりも自分の望みを優先するという高慢の行いなのですが、落ち度を司祭に告白するのは、罪で高慢になった自分を踏みつけることになるのです。
ただ、告白をする人は、自分が誰であるかを知られないで告白する権利があります。それゆえ、告解場には司祭と告白者の間に布などを貼って相手が見えないようにしているのです。
ー目次へー
18)どのような罪を告白しなければなりませんか。
ー前の告解後(最初の告解の場合、洗礼後)に犯した大罪は、その数と主な事情とをともに、真実に言い表さなければなりません。
大罪の数を忘れたときは、およそ何度犯したかを言えば十分です。小罪は必ずしも告白する必要がありません。しかし、その赦しを確実にし、秘跡の恩恵を得て、霊的に進歩するために告白するのは大変有益です。
ゆるしの秘跡は法廷とも言われます。罪を赦す前に、どんな罪を犯したのかを知る必要があります。そこで大罪の場合は、どんな罪で何度犯したかを言うのです。小罪だけであれば、ゆるしの秘跡に行く必要はありません。しかし、教会は小罪だけでも頻繁に告白することを勧めています(CCE.1458)。別に病気ではなくても定期的に医者に言って診てもらう人が多いでしょう。この定期的な検診によって大きな病気を未然に防げるわけです。同じように、小罪はほっておくと徐々に霊魂が弱まり大罪を犯す危険が増えます。以前も言いましたように大罪は霊魂を死に至らせる重い病気、小罪は風邪に例えることができますが、風邪を軽視していると重い病気になることがあります。頻繁な告白は、霊魂を健康な状態に保つことになります。
またそれは、霊魂をきれいに保ちます。部屋の掃除は数ヶ月に一度くらいしかしなければ、別にそこにホコリを投げ込んだわけでもないのに部屋の隅やタンスの後側などにホコリが積もっているでしょう。それと同じように霊魂にもゆっくりとホコリが積もっていくのです。そのホコリを頻繁にゆるしの秘跡に預かることで掃除しておけば、霊魂はいつも清らかです。
ただ頻繁に告解をしていると、そう大きな罪はなく、いつも同じ告解になるような気がすることがあります。「いつも同じ罪でいいのかな」と迷う人もあります。いつも同じ罪でも構いません。だいたい人間は決まった傾向をもっていますから、弱点は簡単には変わりません。それでいつも同じ罪だと言って恥ずかしがることはありません。いつも同じ病気だから、別の病気をするまで医者に行かないという人はないでしょう。むしろ、ゆるしの秘跡は、同じ悪い傾きに対して諦めずに戦い続けるのを助けるためにあるともいえます。また司祭からいろんな助言で励ましを受けることができます。それゆえ、頻繁に真面目に告白をしていれば、日頃の行いが徐々に改善されていきます。
ー目次へー19)大罪の主な事情を告白しなければならないのはどういうときですか。
ー大罪の主な事情を告白しなければならないときは、小罪が大罪になったり、あるいは、一つの悪い行いが種々のおきてに背くために、大罪の上のさらに他の大罪が重なる場合です。しかし、どのような場合にも人の名を言ってはなりません。
小罪が大罪になる場合とは、例えば嘘をつくということは普通は小罪ですが、しかしその嘘のために誰かに大きな物的精神的被害を与えた場合は大罪になります。または暴力や言葉によって人を傷つけた場合に、相手が親であれば、第七戒(殺すなかれ)だけでなく第四戒(両親を敬え)にも反する罪になります。
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20)真実に告白するとはどういうことですか。
ー真実に告白するとは、大罪をその数とおもな事情とともに思い出した通り、増し減らしなく正直に言い表すことです。
正直に言い表すことで難しさを感じるときは、司祭が神の代理者であり、神が全知の審判者であることを考えれば非常に助けになります。真実に告白する必要があるのは、どういう罪かを聴罪司祭がわかるためです。明瞭で適切に告白しなければなりませんが、長々と細かい説明を加える必要はありません。ときに長過ぎる説明の裏には、言い訳をしたいという願望が隠れています。例えば、「同僚に腹を立てました」と言ったあとで、「それは以前その人がこんなことをしたからです」と言って、嫌な思い出を延々と語るなら、「本当は自分は悪くなくてあの人が悪かったのです」と言っているのと同じです。
告解場では、神様のみ前にいることを思い出しましょう。そして、「一番知られたくないと思っている罪」を最初に言うことをお勧めします。それは自分を踏みつける作業で高慢に打ち勝つ手段です。また司祭はどんなことを言われても驚かないのが普通です。長年司牧をしていると、また自分の生活を顧みるなら、人間はみんな同じ泥でできている弱い存在だということを身にしみて知っているからです。
司祭は、告解場では、医師、教師、父であるよう努めます。教皇フランシスコは「告解場が拷問の場にならないように」と戒めました。罪を悔いて告白に来る人を、司祭は導き教えるとともに、愛と尊敬をもって受け入れる必要があります。ともかく、ゆるしの秘跡は、罪を赦すという神の愛の現れです。それゆえ、信者がこの秘跡を嫌がらず、むしろ愛することができるよう司祭は注意せねばならないのです。
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21)告白のとき大罪をわざと隠せばどうなりますか。
ー告白のとき大罪をわざと隠せば、罪が一つも赦されないばかりでなく、その上この秘跡を汚す汚聖の大罪を犯すことになります。
したがって、この場合赦しを得るためには、その汚聖の罪をはじめ、そのとき告白すべきであった大罪とその後犯した大罪とをすべて告白しなければなりません。数回隠した場合、前の有効な告解から告白し直さなければなりません。
告白は司祭に対してではなく、神に対してしているのです。ですから、大罪を隠すなら、司祭に対してではなく神に嘘をつくことになります。この行為はゆるしの秘跡という聖なるものを汚す汚聖です。また、赦しを願う相手に嘘を言うなら、赦してもらえないのは当然でしょう。
『使徒言行録』に財産の半分を売ったお金を、それを全財産を売ったように見せかけて使徒たちに渡した夫婦がいました。ペトロはその嘘を知ってこう言います。「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(使5-4)。初代教会では信者は財産を売ってその金を使徒たちに譲っていたことが記されていますが、それは義務ではなかったのです。だから財産の半分を残しておきたければそう言って半分を差し出せば、なんの問題もなかったのです。ですが、よく思われようとしてか悪く思われないようにしてか、せこいことをしたわけです。同じように、もし大罪を全部言いたくないなら、ゆるしの秘跡にあずからないことです。そして、この秘跡について(神が罪を赦されることの素晴らしさについて)考え、心を正してから秘跡の法廷に赴きましょう。
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22)告白のとき大罪を忘れていたならどうしなければなりませんか。
ー告白のとき大罪を忘れていたなら、その大罪も告白した罪とともに確実に赦されていますが、あとで思い出した場合には、次の告解で言い表さなければなりません。
神は人に不可能を要求されません。適切に究明をした後で覚えていることを告白すればどれで十分です。そこには悪意がありませんから。ただ、後で思い出したら次の機会に告白するべきです。
23)司祭は告解において知った事柄を人に漏らすことができますか。
ー司祭は告解において知った事柄をどのような場合にも絶対に人に漏らすことができません(そのために司祭が殉教したこともあります)。
世の中には職業上の守秘義務というものがありますが、その中でも最も厳しいものがこれです。もし司祭がこの義務に反したなら、破門罰を受けます(『教会法典』1388,1)。もし秘跡の中で殺人などの刑法に触れる罪が告白されたとしたら、司祭は自首を勧めるでしょう。しかし、彼がそれを否んだとして、警察に何を聞いたかを尋ねられても言うことはできません。
司祭は、告解の内容だけでなくその周辺のことについても話さないこと、忘れるように努めます。たとえば、「Aさんが告解に来た」とか「20年ぶりに告解に来た人がいた」など言うべきではないでしょう。そもそも、そんなことは誰も知る必要がないことです。告解の秘密が少しでも疑われるようなことがあれば、この大切な秘跡から人を遠ざけることになります。このことを考えると、ゆるしの秘跡に関しては、司祭は細心の注意を払う必要があることがわかります。また告白する側も、周囲に人がいる場合、小さい声(ただし司祭が聞こえるくらいの)で告白するのが、慎ましさであり、周りの人に対するエチケットでもあるでしょう。
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24)場合によっては、この秘跡を一般告白と一般赦免によって授けることが
できますか。
ー重大な必要性がある場合には(死の危険が差し迫っているような場合)、一般告白と一般赦免を伴う共同回心式を行うことができます。
その場合、教会の規定を尊重すること、また、告白者がその後しかるべきときに自分の大罪を個人的に告白すると決心することが必要です。(『カトリック教会カテキズム要約』311)。
死の危険が差し迫っているような場合とは、例えば乗船している船が沈没しそうになったときなどが考えられます。その場合、個別的な告白は不可能なので、司祭は信者に各自に痛悔の心を起こすよう勧めてみんなに赦しを与えることができるわけです。死の危険がなくても、巡礼などで多くの信者がいて司祭が足らない場合も考えられますが、日本ではそれは一般告白と一般赦免の適応ケースではないと決められています。死の危険が迫っている場合に一般赦免を受ける際にも、もし危険を無事に逃れたら、できるだけ早く個人的な告白をする決心をすることが要求されます(CCE. 1483, 1484)。「共同回心式」や「共同告解」呼ばれるものは、教会で信者が一緒に告白の準備と告白後の償いと感謝を共同で行いますが、告白は個人的にするもので、よく四旬節に行われます。
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(6)償い
25)司祭が告解において償いを命じるのは何のためですか。
ー司祭が告解において償いを命じるのは、罪の有限の罰を償わせるためです。
『罪と罰』という有名な小説があります。罪と罰は別物です。どう違うのでしょうか。罰は罪の結果です。それで、罪が赦されても、その後に罰が残るわけです。例えば、隣の家のガラスを割ったとしましょう。隣の人がガラスを割ったことを赦さず、いつまでも文句を言い続けることは普通ないでしょう。普通は少し小言を言って釈放されます。でもそれで「ああ、もう赦された」と涼しい顔で帰るわけにはいきません。割ったガラスを弁償する義務が残ります。これと同じで、ゆるしの秘跡で罪が赦されますが、罰(償い)は残ります。ゆるしの秘跡で大罪が赦されたなら、無限の罰(地獄の罰)は免れますが、有限の罰は残るということです。
ガラスの例に戻れば、ガラスを割ったことで隣人に悪いことをしたと心から思うならば、こちらから進んで賠償し、それだけでなく、一週間はお隣の家の前を掃除するとか、なにか相手の気持ちを満足させるような善行をしようと望むでしょう。それと同じで、罪を痛悔しているなら、償いをしたいと望むはずです。
償いの仕方としては、「祈り、寄付、慈善のわざ、隣人への奉仕、自発的な苦行、犠牲、とくに私達が担わなければならない苦しみを忍耐強く受容することなどがあります」(CCE 1459)。以前、「なぜ神はこの世から苦しみを取り除かれないのか。なぜ良い人が苦しむのか」という問題を扱ったことがあります。答えは「それらは償いになる」ということです。ベネディクト16世は言われたのですが、「以前はよくお捧げする」ということがありました。つまり、なにか苦しいことがあれば、それを我慢することを神様にお捧げしましょう、という勧めです。神様に自分の罪の償いのために、また世界中で侵されている罪の償いのために、です。この態度は決して消極的なものではありません。何か苦しいことがあれば、ぶつぶつ不平を言う態度と、我慢してそれを捧げる態度とはどちらが魅力的でしょうか。
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26)司祭に命じられたに償いは、どのようにして果たさなければなりませんか。
ー司祭に命じられたに償いは、忠実にできるだけ早く果たさなければなりません。
償いを果たすことは、ゆるしの秘跡の一部分なので、これを果たさなければ秘跡は未完了になります。忘れる危険があるので、告解が終わったら早めに償いを果たすようにしましょう。
またゆるしの秘跡で課された償いは、秘跡の一部分という意味で価値の有るものです。しかし、それだけでは、自分の償いを完済するのには普通不十分のはずですから、今見たように毎日の生活での小さな苦しみを捧げることは大いに勧められます。
最後にゆるしの秘跡の場所ですが、『教会法典』には「告白の席に関しては、司教協議会がそれを規定しなければならない。ただし、告白の席は、信者が望むとき自由に使用できるように明白な場所に用意され、かつゆるしの秘跡を受ける者と聴罪司祭との間には格子が設けられなければならない」(964条 2)とあります。これを受けて日本の司教協議会は、「すべての教会堂に信者が望むとき自由に使用できるように明白な場所に、ゆるしの秘跡を受ける者と聴罪司祭の間に格子をもうけた告白の席がすくなくとも1つ用意されねばならない。正当な理由により、告白の席以外で告白を聞く場合、聴罪司祭はこの秘跡の聖なる品位が正しく守られるよう、司牧的賢明さをもって行動すべきである」と決めています(『教会法典』xiii)。
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(7)免償
(免償についてのよい参考文献は、聖パウロ6世、『インドゥルジェンツィア・ドクトリナ』です)
27)免償とは何ですか。
ー免償とは、教会が告白の秘跡以外に与える、すでに赦された罪の有限の罰のゆるしです。
したがって免償は罪の赦しとは違います。教会はキリストから授けられた権能(マタイ 18-18)をもってこれを与えるのです。
中高の世界史の教科書に、宗教改革の箇所で必ず出てくる言葉に「免罪符」というものがあります。その言葉は、なにかの御札を買えばそれで罪が赦されるという印象を与えますが、これは大きな誤解です。ラテン語ではIndulgentiaと言いますが、正確な訳は「免罪符」ではなく「免償符」なのです。実際、ルターが批判したのは、「聖ペトロ教会の改築のため寄付をすれば罪が赦されるとはけしからん」と言ったのではなく、「教会が償いを赦す(すなわち免償)」という教えを批判したのです。
教会に罰をゆるす権能があるというのは、「あなたたちが地上でつなぐものは、すべて天においてもつながれ、あなたたちが地上で解くものは、すべて天においても解かれる」とイエスが使徒たちに言われた言葉に基づきます。
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28)教会は何に基づいて免償を与えますか。
ー教会はキリストの限りのないいさおし、ならびに聖母と諸聖人との、いさおしに基づいて免償を与えます。
それは、教会が私たちの償いの代わりに彼らの、いさおしを神に捧げるからです。まず「いさおし」とは何か見ていきましょう。カトリックの神学では、「いさおし」(功徳ともいいます)とは報酬を受ける権利を与えるよい行いを言います。正確には、人間のよい行いは神から報酬を受けるに値するものではありません。しかし、成聖の恩恵によって神の子となった人のよい行いは、神の憐れみのお陰で報酬の対象となるのです。「隠れたことをご覧になるあなたの父は報いてくださる」(マタイ 6-4など)という言葉はそういう意味です。それにしても、まずイエス様のご受難は無限の功徳があります。そして聖母を始め、諸聖人の功徳も。ぜひ、少し詳しい聖人伝をお読み下さい。聖人の生活がどれほどの価値あるものだったか直に知れば、その功徳が半端ではないことがわかるでしょう。それらは聖人たちが自分の罪の償いをしても有り余るほど豊かなものです。この有り余った功徳は、言ってみれば、教会が預かった宝物のようなものです。教会はこの預かった功徳を自在に(霊的に)貧しい人々に分け与える権能を、教会の創立者であるイエス様から与えられているのです(ルターはこの教えを否定します)。
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29)免償には幾種類ありますか。
ー免償には全免償と部分免償との二種類があります。
全免償は有限な罰をすべて、部分免償はその一部だけをゆるします。有限な罰は、この世で償いきれなければ、死後、煉獄で償います。それで全免償を受けてすぐに死ぬなら直接天国に行けることになります。ただし、次に見るように全免償を表面上受けたとしても、その条件を完全に果たしたかどうかは誰もわかりません。部分免償の場合、まだ償いが残っているので煉獄でその浄化を行うことになります。
30)免償を受けるために何が必要ですか。
ー 免償を受けるためには、成聖の恩恵を持ち、免償を受ける意向があり、教会の決めた条件(一定の祈りを唱え、秘跡を受け、よい業を行うなど)を果たすことが必要で、全免償を受けるためには、すべての小罪も赦されていなくてはなりません。
繰り返しますが、免償は罪の赦し(免罪)ではありません。罪が赦されるためにはゆるしの秘跡にあずからねばなりません。その上で、教会の決めた条件を果たすわけです。教会が一定の条件を定めて免償を与える目的は、信者に信心の業や善行を勧めるためです。
古代には、この実践はほとんどありませんでしたが、中世になって急激に広がります。宗教改革に戻りますが、あのとき免償を受けようとした人はまずゆるしの秘跡を受けていたのです。教会の決めた条件というのが、ローマの聖ペトロ教会改築のための寄付でした。聖ペトロ教会は4世紀に建てられた教会(聖ペトロの墓の上に祭壇を置いた)で、15世紀になると、もうひどい状態だったのです。時はルネサンス最盛期、その事業にはラファエロやミケランジェロも参加します。それでなくてもあの大きな教会の改築には膨大。そこで寄付を募ったのです。教義的にはこれは問題がないのですが、莫大なお金が絡んだことで教会と政治と銀行業者などの癒着の問題など、批判を招いても仕方のない状況になりました。ただ、それは免罪符ではなく免償符であり、その点は批判者も正しく理解はしていました。ただ、その批判は免償の教義やローマ教皇の権限に及んでいくのです。
もう一つ、全免償の条件に「すべての小罪も赦されていなくてはなりません」というのがあります。これは結構ハードルが高い条件なのです。というのは、「すべての小罪が赦される」ということは「あらゆる小罪からの執着心を取り除く」ということなのです。私たちは自分の良心と真剣に向き合うなら、なにかの小罪に執着していることに気がつくと思います。小罪はなんらかの自己愛です。「神様、これだけは私の勝手にさせて下さい。これに関しては指図しないで下さい」と言いたくなるものはありませんか。
実は煉獄での浄化とは罪への執着を取り除くことなのです。執着心は霊魂にぴったり引っ付いているので、それを取り除くのはちょうど怪我の跡にできる血の塊を皮膚からはがすような苦しみが有るのだろうと想像できます。全免償は一日に一回しか受けられません。
ー目次へー
31)免償を人に譲ることができますか。
ー免償をこの世の人に譲ることはできませんが、教会の定めによって煉獄の霊魂に代願としてこれを譲ることができます。
これはキリストの神秘体である教会の項でお話しましたが、教会には天国の教会(勝利の教会)、煉獄の教会(清めの教会)と地上の教会(戦う教会)が含まれます。これらは、みなキリストの神秘体を構成しているのですから、互いに結ばれています。そのために功徳を交わりでやり取りできるというのです。これが「聖徒のまじわり」という教義です。
煉獄で浄化を受けている人々は、自分から何か功徳のある行いができません。ゆえに自分の行いによって免償を受けることはできません。しかしこの世にいる信者は、祈りや犠牲を煉獄の霊魂のために捧げることで彼らを助けることができます。また効果的な仕方として、自らが得た免償を教会を通して煉獄の霊魂に譲ることがあります。ただし、具体的にどのような仕方で煉獄の霊魂が助かるのかはわかりません。聖ホセマリアは、煉獄の霊魂たちは浄化を受けながらも天国に連なる列をなしていて、前から10番めの人が地上の人々の祈りや免償のお陰で天国に入る条件を満たしたなら、前の9人を飛び越して行くのではなく、彼らの背中を押して一緒に入ると想像していました。でなければ、死ぬときにたくさんお金を残して自分の霊魂のためにミサを捧げてもらうことができる金持ちはすぐに天国に入るが、貧乏な人や身近にカトリック信者のいなかった人は、いつまでたっても煉獄に残っているというような不公平な状況が起こり得るかもしれないからです。それならまさに、地獄の沙汰も金次第、ではないですか。弱者に特別の愛を示しておられたイエスが、そんなことを許されるはずがないでしょう。
ー目次へー
(8)病者の塗油
1)病者の塗油とは何ですか。
ー病者の塗油とは、病気や老齢のために死の危険に臨もうとしている信者を助け強める秘跡です。
仏教の開祖、ゴータマ・シッダールタはある国の王子としてなに不自由のない生活をしていたが、ある日王城の外に出て見ると、人間世界には苦しみが満ちていることを目の当たりにし驚きます。その後、人間はいかにこの苦しみから逃れることができるか考え、苦行に専念した末に悟りを開くのですが、苦しみの中でも最もひどく根本的なものを生老病死の四苦であるとしました。この病気と死が人生にのしかかる大きな苦しみであるということは誰でも感じることでしょう。
旧約聖書では、これらの苦しみはアダムとエヴァの罪の結果であると説明します。さらに時代が下ると、聖書には苦しみが罪と関係があることに加えて、罪の償いの手段にあるという教えが現れます。つまり、苦しみには意味があるというのです。この教えは、イエスの受難と十字架上でのご死去によってはっきりと示されました。
イエスは苦しみに意味のあることを教えましたが、病人を見捨てるのではなく、彼らに同情し癒やしの手を差し伸べることもしばしばでした。主は、病人だけでなく、苦しみすべての人に対し共感を示され、「私が病気のときに見舞ってくれた」(マタイ 25-36)という言葉からわかるように、苦しむ人々と御自分をまったく同一視されました(CCE 1503)。
また弟子たちにご自分のあわれみと治癒の務めにあずからせました。「「病人を癒やしなさい」(マタイ10-8)。この命令にしたがって、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして・・・油を塗って多くの病人を癒やした」(マルコ 6-13)。
キリストからこの務めを受けた教会は、病人の世話とそれに伴う執り成しの祈りによって、これを果たすように努めています。すでに使徒時代に教会は病人のための固有な儀式を持っていました。それは聖ヤコブの次の言葉に現れています。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」(ヤコブ 5-14~15)。
すでに見たように秘跡の条件の一つに、イエスによって制定されたということがありますが、病者の塗油の秘跡についてはその制定について明確な叙述はありません。しかし、教会はこのヤコブの言葉と、使徒たちが「油を塗って多くの病人を癒やした」というマルコ福音書の言葉が、病者の塗油の秘跡に言及しているものだと認めています。
ー目次へー
2)病者の塗油の秘跡の効果は何ですか。
ー病者の塗油の秘跡は、病人と全教会の善益のために、病人をキリストの受難にいっそう緊密に一致させる特別の恵みをもたらします。
この恵みは、慰め、平安、勇気、そして病人がゆるしの秘跡を受けることができなかった場合には、罪の赦しを与えます。それが神のおぼしめしであれば、時として肉体的健康の回復を可能にすることもあります。いずれにせよ、この塗油の秘跡は、病人に父なる神の家へ入るための準備をさせます。
病気やその他の苦しみによって、人は苦しむキリストに似たものなります。またキリストの十字架の一端を担うと想像しても誤りではありません。これは、一方でキリストとともに人類の贖いの業に協力することになり、他方でキリストの励ましを受けることになります。病者の塗油はこの不思議な神の助けをより力強く感じさせてくれます。第2バチカン公会議は、「病者の聖なる塗油と司祭の祈りとによって全教会は、苦しみと栄光を受けた主に、病苦を和らげ病人を救うように願い、なお病者に対しては、進んで自分をキリストの受難と死に合わせて、神の民の善に寄与するよう勧め、励ます」とあります(『教会憲章』11)。
死に臨んだ人に対しては、病者の塗油は直接救いに必要な働きをします。生涯の最後のときは、父の家に入る前の最後の戦いのときです。人の霊魂を神から奪い取ることだけを念願する悪魔が、このときに様々な攻撃をしかけるのは想像にかたくありません。この困難な戦いの助けがこの秘跡が制定された最大の目的です。この秘跡が「この世を去る人々の秘跡」とも言われる所以です。
ー目次へー
3)司祭はどのようにして病者の塗油の秘跡を授けますか。
ー司祭は、祝福された油(聖香油)を病人の額と手に塗り、同時に『この聖なる塗油により、いつくしみ深い主キリストが、聖霊の恵みであなたを助け、罪から解放してあなたを救い、起き上がらせてくださいますように』と唱えて、授けます。
すべての秘跡と同じく、病者の塗油も典礼祭儀です。つまり、たとえ家や病院で一人のために行われても、そこには教会全体が参加しているのです。もちろん、「ミサの中でするのが極めてふさわしいことです。事情によっては、秘跡が行われる前にゆるしの秘跡を、後に聖体の秘跡を授けることができます」(CCE 1517)。この聖体は「旅路の糧」と呼ばれます。
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4)病者の塗油の秘跡は救いを得るのに必要ですか。
ー病者の塗油の秘跡は、救いを得るのに絶対に必要ではありませんが、病気で生命が危うくなった信者にはきわめて大切です。
「この秘跡は司教と司祭だけが授けることができます。この秘跡の恩恵を信者に教えることは司牧者の義務です。信者はこの秘跡を受けるために司祭を呼ぶよう、病人に勧めなければなりません」(CCE. 1516)。病者の塗油を受けたいかと病人に尋ねると、「もう私はだめなのか」とショックを受けるのではと恐れて、なかなか言い出しにくいかもしれません。しかし、上述のようにこの秘跡は最期の時にとても必要なものです。できればゆるしの秘跡を受けることができるように、まだ意識のはっきりしているうちに勧めるべきです。死は霊魂と体が離れることで、誰も経験したことがないので、不安や恐れがあることは仕方がありませんが、キリストを信じる者にとって「死は滅びではなく、新たな命への門である」(『ローマ・ミサ典礼書』死者の叙唱1)という真理を普段から黙想しておきたいものです。死を前にしたある修道女が「今まで私がしてきた死についての黙想は、今何の役にも立っていません」と言われたそうですが、その方が不真面目だったからでも、これは珍しいことでもありません。自分が死ぬということを本当に黙想することは極めて難しいことです。
同じ信者がこの秘跡を受けた後、回復し、その後再び重い病気にかかったら、この秘跡を繰り返し受けることができます。遠慮なく司祭を呼びましょう。
ー目次へー
5)司祭のいないときに死に臨んだ信者はどうしなければなりませんか。
ー司祭のいないときに死に臨んだ信者は、犯した罪を完全に痛悔し、すべてを神のみ旨に任せなければなりません。看護人もまた、病人を助け、励まさなければなりません。
臨終のときは最後の戦いのとき、永遠の運命が決まる戦いのときです。戦いとは、自己愛に打ち勝つことです。最期のときに、謙遜に私達の罪の赦しを神に願うことができますように。その際に、聖母マリアが助けてくださるはずです。なぜなら、何度となく「死を迎えるときも祈って下さい」と頼んでいたからです。
病人を看護する人は、審判のときキリストが「私を助けてくれた」と言われるほど慈悲の業です。ただ、病人の気持ちを知るのは至難の業であることを心得ておかねば、励ますよりも一層苦しめることにもなりかねません。実際に病人や死を前にした人たちの世話に当たった経験豊富な方々の話を読むのは役に立つと思います。参考文献は無数にありますが、私の知っているところを二三ご紹介しておきます。アルフォンス・デーケン神父様の『死とどう向き合うか』NHK出版、高木慶子シスターの『死と向き合う瞬間』学習研究社、沼野尚美女史の『いのちの輝き』くすのき社。
ー目次へー
ー以上ー